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辛亥革命/第一革命

1911年、孫文らが中心となって清朝を倒し、1912年1月に孫文を臨時大総統とする中華民国を樹立した革命。中国で秦の始皇帝以来続いた皇帝政治が終わり、アジアで最初の共和政国家を樹立した。

 日清戦争の敗北で清の動揺は深まり、列強による中国分割が進み危機に陥っていた。開明派官僚による戊戌の変法という近代化の試みは西太后などの保守派の抵抗で失敗に終わり、1900年に義和団事件に際して清朝は列強と戦って敗れ、ついに政権内部でも立憲君主政への移行を模索する光緒新政といわれる動きが始まった。科挙の廃止憲法大綱の制定など、一定の近代化を実現したが、清朝による満洲人の支配に対する漢民族の不満は解消されなかった。

第一革命 中華民国の成立と清朝の滅亡

 1911年、清朝政府が外国資本(四国借款団)を財源とした鉄道国有化政策を打ち出すと、それに対する反対運動がまず四川暴動として始まり、ついに10月、政府軍の兵士が反乱を起こした武昌蜂起は湖南省長沙、陝西省西安、さらに上海へと広がり、各省の実権を握った蜂起軍は清朝からの独立と共和政国家樹立を宣言した。この年が辛亥(しんがい)の年に当たっていたため、ここから始まった革命は辛亥革命といわれることになる。
 武昌蜂起が起こったとき、孫文はロンドンにいた。孫文はすでに1894年に清朝の改革をとなえ、ハワイで興中会を組織し、日清戦争や義和団事件に際して清朝政府内の改革派に呼応する形で挙兵していたが、いずれも鎮圧され、長い亡命生活を送らざるを得なくなっていた。1905年には中国同盟会を結成し、清朝の支配に代わる新たな中国の理念として三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)と四大綱領を提唱していた。武昌蜂起が始まると孫文はただちに帰国し、1912年1月、独立を宣言した各省の代表が南京に集まり、孫文を臨時大総統に選出して、中華民国が成立した。
 清朝政府はなおも北京に命脈を保っていたが、1912年2月に内閣総理大臣袁世凱は、最後の皇帝宣統帝を退位させ、清王朝は12代297年で滅んだ。同時に革命勢力を取り込もうとして皇帝退位を条件として孫文に臨時大総統の地位の移譲を迫り、3月にそれを実現した。
 ここまでを第一革命(狭い意味の辛亥革命)ともいう。この革命は清朝の滅亡のみならず、秦の始皇帝から2000年以上続いた中国の皇帝専制政治が終わりを告げ、中国最初の(同時にアジア最初の)共和政国家が出現した、という大変革であった。また1840年のアヘン戦争以来、資本主義列強の侵略を受け半植民地状態に落ち込んでいた中国の、真の独立を目指す戦いが始まったという意義もあった。

第二革命

 しかし南京の革命政府は独自で中国全土を統治し、共和制を実現する力に不十分で、実権は北京の袁世凱に握られていく。孫文はあらためて革命運動の組織化に着手、1912年8月にそれまでの中国同盟会などの政治団体を統合して国民党を結成し、議会政治の実現に備えた。暫定憲法として臨時約法が制定され、議会制度を実現するために、1913年に初めての選挙が実施された。この初めての選挙で国民党は第一党となり、中華民国の議会政治が開始されることになったが、独裁権力の弱体化を恐れた袁世凱は弾圧に乗り出し、国民党の指導者宋教仁を暗殺し、国民党も解散させた。
 この袁世凱の独裁強化に対し、黄興や李烈鈞らが挙兵し第二革命となった。しかしこの反独裁の動きは鎮圧され、失敗に終わった。弾圧を逃れた孫文はやむなく、1913年のうちに日本に亡命、改めて東京で秘密結社として中華革命党を結成した。袁世凱は、10月、自ら初代の正式な大総統に就任し、1914年3月には臨時約法を廃止し中華民国約法を制定して議会政治を否定、大総統の権限を強化した。

第三革命

 袁世凱は中華民国大総統として、1914年の第一次世界大戦が勃発すると、中立を宣言した。しかし、ドイツ基地のある青島を占領した日本は、翌15年に袁世凱政府に対し二十一カ条の要求を提出すると、5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府はそれを受諾した。これに対して激しい反対運動が起こった。袁世凱は自ら皇帝となることで事態を終息させようと、帝政宣言を発したが、たちまち帝政反対の声が巻き起こり、第三革命が始まった。日英露仏の列強も袁世凱の帝政に反対したため袁世凱は失意の内に1916年に死亡した。
 これ以後、中華民国政府の実権は軍閥に握られるようになり、混迷を深める。軍閥政府に対して、孫文は1919年に五・四運動など民族の主権回復運動が盛り上がったことを受けて、公然とした大衆政党として中国国民党を結成する。また同時にマルクス主義をもとにした中国共産党も結成され、大きな意味の中国革命はさらに継続されていくこととなる。

広い意味での中国革命

 辛亥革命は長期的に見れば、「中国革命」の始まりと見ることができる。辛亥革命で成立した「中華民国」は真に近代的な国民国家となることができず、軍閥の抗争、帝国主義列強の支配、封建社会の残存などの克服がなおも課題として残った。第一次世界大戦後の中国ナショナリズムの高揚をうけて孫文は中国国民党を結成、さらに新たに登場した中国共産党との間で大胆な国共合作を成立させた1924年からは「国民革命」と言われるようになる。

1911年

 辛亥革命の起こった1911年は、帝国主義と民族運動の矛盾が進行した年であった。アフリカではドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が再びモロッコに軍艦を派遣(第2次モロッコ事件)、イタリアはトリポリ・キレナイカの領有を狙って出兵しイタリア=トルコ戦争が起こった。民族運動も進展し、インドネシアでのサレカット=イスラームが成立、メキシコでのサパタのメキシコ革命、インドではガンディーらの運動によってベンガル分割令が撤回された。イランではロシアの圧力で国民議会が解散させられた。なお、辛亥革命の直接の影響として、12月にモンゴルが独立宣言を出した。1911年は日本では明治44年にあたり、その前年に韓国併合を行っている。そして1911年1月には大逆事件で幸徳秋水らが処刑された。中国では皇帝政治が終わりを迎えた年に、日本では天皇制が批判を許されない絶対的体制となったのだった。
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第14章3節 エ.辛亥革命