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辛亥革命/第一革命

1911年、孫文らが中心となって清朝を倒し、中華民国を樹立した革命。

1911年、辛亥(しんがい)の年に武昌蜂起に始まった反清朝の暴動が全国に広がり、翌12年1月、孫文が臨時大総統に就任し中華民国が成立した。この中国最初の(またアジア最初の)共和政国家の出現を辛亥革命という。

第一革命 清朝を倒し中華民国を成立させる。

 清朝政府はなおも北京に命脈を保っていたが、2月に内閣総理大臣袁世凱によって宣統帝が退位させられ、清王朝は12代297年で滅んだ。ここまでを第一革命(狭い意味の辛亥革命)ともいう。この革命は清朝の滅亡のみならず、秦の始皇帝から2000年以上続いた中国の皇帝専制政治が終わりを告げるという大変革であった。また1840年のアヘン戦争以来、資本主義列強の侵略を受け半植民地状態に落ち込んでいた中国の、真の独立を目指す戦いでもあった。

第二革命と第三革命

 しかし革命政府は独自で中国全土を統治し、共和制を実現する力に欠け、実権は北京の袁世凱に握られていく。袁世凱の独裁政権に対する革命派の戦いは1913年の第二革命、1915年の第三革命がいずれも失敗し、その後の中国は軍閥が割拠する混乱期が続く。

広い意味での中国革命

 辛亥革命は長期的に見れば、「中国革命」の始まりと見ることができる。辛亥革命で成立した「中華民国」は真に近代的な国民国家となることができず、軍閥の抗争、帝国主義列強の支配、封建社会の残存などの克服がなおも課題として残った。第一次世界大戦後の中国ナショナリズムの高揚をうけて孫文は中国国民党を結成、さらに新たに登場した中国共産党との間で大胆な国共合作を成立させた1924年からは「国民革命」と言われるようになる。

1911年

 辛亥革命の起こった1911年は、帝国主義と民族運動の矛盾が進行した年であった。アフリカではドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が再びモロッコに軍艦を派遣(第2次モロッコ事件)、イタリアはトリポリ・キレナイカの領有を狙って出兵し、イタリア=トルコ戦争が起こった。民族運動も進展し、インドネシアでのサレカット=イスラームが成立、メキシコでのサパタのメキシコ革命、インドではガンディーらの運動によってベンガル分割令が撤回された。イランではロシアの圧力で国民議会が解散させられた。なお、辛亥革命の直接の影響として、12月にモンゴルが独立宣言を出した。1911年は日本では明治44年にあたり、その前年に韓国併合を行っている。
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ノートの参照
第14章3節 エ.辛亥革命