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イズミル/スミルナ

小アジア西岸のトルコ領にあるがギリシア商人が居住した商業都市。トルコ共和国成立後の1919年ギリシア軍が侵攻したが22年にトルコが奪回した。

 現在はトルコ領でイズミルといわれているが、ギリシアではスミルナ(スミュルナとも)という。小アジア(アナトリア)西岸、重要な商業港。古代にはギリシア世界のイオニア地方(イオニアの反乱がおこったところ)にあたり、ローマ時代には商業地域として栄えていた。オスマン帝国に支配されてからもその商業都市として繁栄したが、住民の多くはギリシア系であった。

ギリシア=トルコ戦争

 第一次世界大戦が終わるとトルコの苦境につけ込む形で、1919年5月、ギリシア軍が侵攻し、この地の併合を企てギリシア=トルコ戦争が起こった。ギリシア軍はイギリスの支持を受けてアナトリア内陸まで侵攻、スルタン政府は領土を大幅に割譲するセーヴル条約を認めた。しかしトルコ人の憤激を背景に、スルタン政府代わったムスタファ=ケマルを中心としたトルコ国民軍が反撃し、1922年9月にはイズミルを奪回、ギリシア軍は撃退された。これが、第一次世界大戦後の局地的戦争の一つであり、国際連盟の調停力が試されることになったが、戦争を回避することはできなかった。このとき、ギリシア人住民約3万が殺され、古代以来の歴史的文化財も灰燼に帰した。
 この勝利によってトルコはセーヴル条約を破棄し、1923年のローザンヌ条約の締結に成功し、小アジアの大陸部の領有が認められ、スミルナはトルコ名でイズミルと言われることになった。現在のイズミルには古代ギリシアのアゴラの遺跡が残っているが、それらはローマ時代に再建されたものである。アゴラ周辺以外の遺跡は、ギリシア=トルコ戦争の際、敗北したギリシア軍が焦土作戦を展開して町を破壊したため残っていない。

トルコ軍によるキリスト教徒虐殺

 スミルナはトルコ人から「異教徒の町」といわれるほど非イスラーム教徒であるギリシア人・アルメニアのキリスト教徒が多かった。1919年5月に侵攻したギリシア軍はイスラーム教徒の家を焼き払って占領し、その併合を図った。しかし、ムスタファ=ケマルのトルコ国民軍に反撃され、1922年9月に撤退した。こんどはトルコ軍が街に火を放ち、キリスト教徒に対する報復を開始すると法と秩序は瓦解し、およそ3万人が虐殺された。アルメニア人の多くは虐殺され、ギリシア人はわれ先に港に殺到、ギリシア本土に逃れようとした。スミルナの港は避難民で混乱し、難民を満載したボートが転覆するなど、多くの犠牲者を出した。
(引用)目撃者の証言に拠れば、パニック状態の避難民は炎から逃れるために海に飛び込み、恐れおののく叫び声は何マイル先からも聞こえたという。このような屈辱的なやり方で、2500年に及んだ小アジアのギリシア人駐留は唐突に終止符が打たれた。メガリ・イデア(注:コンスタンティノープルを中心としたギリシア人居住圏を統一した国家を建設するという理念)という困難な夢は、スミルナの灰燼に帰する運命に終わった。<クロック/高久暁訳『ギリシアの歴史』創土社 p.110>

出題 2015年センターテスト 世界史B 第2問 C

 アナトリア(小アジア)西部の港町イズミル(スミルナ)は、オスマン帝国の支配下で、17世紀半ば以降、イラン産生糸やアナトリア産綿花などをヨーロッパへ輸出する拠点として急速に発展した。国際的な一大商業都市に発展したイズミルには、フランス人、イギリス人など外国商人が多数居住した。しかし、ヨーロッパとの商取引を支配したのは、オスマン帝国内の非ムスリム商人であり、特にギリシア人は、綿花輸出において中心的な役割を果たした。オスマン帝国から、ギリシアが独立した後も、ギリシア人は、トルコ共和国成立期に至るまで、イズミルの商業活動の主要な担い手であった。(設問はいずれもイズミルとは直接関係ないので省略した)
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ノートの参照
第15章2節 イ.国際協調と軍縮の進展