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トルコ共和国

第一次世界大戦の敗北で、国家存亡の危機に直面したが、ケマルの主導によってギリシアとの戦争に勝ち、領土を確保し、1923年、ケマル=パシャを初代大統領として選出して共和国を発足させた。


トルコ共和国(1) トルコ共和国の成立

 第一次世界大戦の敗戦を機に始まったトルコ革命で、1922年にムスタファ=ケマルの指導するトルコ大国民議会スルタン制廃止を決議したことによってオスマン帝国が滅亡した。平行して戦われていたギリシア=トルコ戦争にも勝利し、連合国との間でローザンヌ条約を締結して失いかけた国土とともに主権を回復し、1923年にトルコ共和国の樹立を宣言した。
 トルコ大国民議会はケマル=パシャを大統領に選出し、首都はオスマン帝国のスルタンの都であったイスタンブルを避けて、アンカラに定められた。1924年にはカリフ制を廃止して政教分離を実現し、トルコ共和国憲法を制定、主権在民、一院制の議会制度、大統領制などを規定した。これによってトルコは近代国家として自立したといえる。世俗主義政策がとられてオスマン帝国時代のイスラーム教による宗教的政治から脱した。しかし政治面では実質的にはケマル=パシャの創設した人民共和党の独裁が続き、安定しなかった。

ギリシアとの強制住民交換

 ギリシア=トルコ戦争では、ギリシア軍に占領されたスミルナ(トルコではイズミル)を奪回したが、その際にトルコ軍が約3万のキリスト教徒を虐殺し、また多くのギリシア人避難民の溺死者を出したことなどから、現在に至るまでギリシアとの感情的な敵対意識を残すこととなった。
 1923年にギリシア=トルコ戦争の講和として成立したローザンヌ条約では、両国の対立の要因を排除する目的で、ギリシア王国のヴェニゼロス政権とトルコ共和国のムスタファ=ケマルの間でそれぞれの国内に居住している住民を交換することが定められた。住民交換の根拠は「宗教」とされ、トルコ側からギリシアへ約110万のキリスト教徒が移住、ギリシア側からトルコへ約38万のイスラーム教徒が移住するという内容での「住民交換」が行われた。しかしこの強制的な住民交換は、様々な悲劇をを生み、双方の感情の悪化はさらに強まった。
 次の文は、1980年代に日本人女性が単身トルコを旅行したとき、イスタンブル南方のマルマラ海にある島でギリシア系夫人と識りあったときの会話である。
(引用)「あなた、アンダラギをご存じ? 住民のエクスチェンジ(交換)のことよ。ギリシアがトルコから独立した後、トルコに住んでいたギリシア人と、ギリシアに住んでいたトルコ人を交換したの」
「ああ、知ってます。ええと、映画(『旅芸人の記録』)で見ました」
「私の親戚も、知人も、大勢、帰って行ったわ。・・・でもね、私は帰らなかったの。この家を離れたくなかったから」
「その“交換”は何年ごろだったのですか?」
「何年もかかったのよ。なにしろ、エーゲ海岸には、大昔からギリシア人がたくさん住んでいたんですから。つまり、昔はここはギリシアだったのよ。トルコからの引揚げ難民が一番多かったのは1922年だけれど、その年だけで20万といいますからね。ぜんぶで百数十万人のギリシア人が帰っていったのよ。」
(彼女アンナ自身はイスタンブルのギリシア人は交換の対象から外されたので、ギリシアには帰らなかった。「でも、私はギリシア人よ」と強い口調で言ったあと、次のように話した。)
「ケマル・アタチュルクをトルコ人は神さまのように尊敬していますけれどね、ギリシア軍がイズミールを解放しようとしたとき、アタチュルクが率いるトルコ軍は、イズミールに住むギリシア人を大勢殺したんですよ、女子供までね」
<渋澤幸子『イスタンブール、時はゆるやかに』1997 新潮文庫 p.83-85>

トルコ共和国(2) 世俗主義政策

ムスタファ=ケマルによるトルコ共和国のイスラーム教政教一致を否定し、政教分離・世俗化を進める政策。

トルコ共和国を建国したムスタファ=ケマル(アタチュルク)の率いる共和人民党は、共和主義・民族主義・人民主義・国有国営主義(エタティズム)・世俗主義・改革主義の「六原則」を綱領に掲げていた。その中でトルコ独自のものが「世俗主義」であり、イスラームの宗教的支配から政治・文化・教育などを解放して西欧化を目指したものであった。トルコを亡国から救ったケマル=パシャの人気は絶大であったが、イスラム信仰を守ろうとする民衆の中にはその点では反発も大きかった。

近代化政策の内容

 トルコ革命の一環として実施された近代化政策には次のようなことがある。
  • カリフ制廃止
  • 文字革命 トルコ語を国語として制定し、文字はアラビア語を廃止してローマ字をもとに新たに制定。
  • 婦人解放 多妾制を禁止し一夫一婦制とする、女性のチャドル(顔を隠すヴェール)を廃止など。
  • イスラーム暦を廃して太陽暦を採用する。
  • その他、トルコ帽(フェズ)の廃止。
 など多岐にわたる。トルコ革命の政教分離の原則と世俗主義は、その後もトルコ共和国の基本政策として継承されているが、1990年代からトルコでもイスラーム原理主義が台頭し、揺らいできている。

トルコ共和国(3) 第二次世界大戦と戦後

第二次世界大戦では最初中立策をとり、末期に連合国に加わる。戦後、ソ連の進出を警戒したアメリカが支援を強化、戦後は西側陣営との関係を強化した。

 第一次世界大戦後にオスマン帝国が崩壊して成立したトルコ共和国は、ケマル=アタチュルクのもとで近代化、世俗化(イスラーム教による宗教的統治の否定)が図られてきた。第二次世界大戦が勃発すると、はじめ中立策をとり、連合国の勝利が確実となった1945年2月に対ドイツ、対日本の宣戦布告を行い、連合国に加わった。

トルコをめぐる米ソ対立

 戦後はバルカン半島と東北方面でソ連圏に接していることから、アメリカはギリシアと共にトルコの共産化を恐れ、1947年にトルーマン=ドクトリンを発表して、ソ連に対する封じ込め政策にトルコを組み入れた。トルコ側にもロシア以来のソ連に対する敵対心が強いため、戦後トルコは西側の一員に組み込まれることとなった
 さらにマーシャル=プランを受け入れて経済を再建し、朝鮮戦争にも軍を派遣したため、ソ連等の関係は悪化し、1952年にはギリシアと共にNATOに加盟した。さらに1955年にはバグダード(中東)条約機構に加盟し、ソ連包囲網を強化した。1959年にイラクが脱退したため中央条約機構に改組されると、その本部を首都アンカラに置いた。

トルコ共和国(4) 揺らぐ世俗主義

独立以来、世俗主義を貫いてきたが、60年代以降、経済格差の拡大などを背景として貧困層に反西欧、反世俗化の意識も強まり、EU加盟問題も国内外の反対も根強く、進展していない。。

 小アジアとバルカンの一部を領有する現在のトルコ共和国は、面積日本の約2倍、人口は約7000万。首都はアンカラ。人種はトルコ人主体、宗教はスンナ派イスラーム教だが、南西部のクルド人など異民族も多数抱えている。
 トルコ共和国は1923年のトルコ革命による建国以来、ケマル=アタチュルクの指導する、政教分離の原則に基づく世俗主義を掲げ、様々な西欧化を図ってきた。しかし、国民の大半をしめるイスラーム教徒の中には西欧化に反発する意識も強く残っていた。

世俗主義の危機

 1960年の軍部によるクーデターの混乱を乗り越え民主政治を復活させ、自由主義の拡大によって経済が成長したが、反面貧富の差が拡大し、70年代から次第に反西欧、反世俗化とイスラームへの復帰を掲げる政治勢力が台頭してきた。
キプロス紛争 トルコの南の地中海上に浮かぶキプロス島は、1960年にイギリスから独立したが、約20%のトルコ系住民が居住していた。彼らはたびたびギリシア系住民と衝突していた。1974年、ギリシアの軍事政権がキプロスに介入したことに反発したトルコ共和国が出兵、北キプロスを占領し、83年には一方的に「北キプロス・トルコ共和国」独立を宣言した。しかしまだ国最低な承認には至っていない。
EU加盟問題 1999年には欧州連合(EU)加盟候補者となり、西欧化が加速されるかに見えたが、2002年の総選挙でイスラーム系の公正発展党(AKP)が35%を獲得し初のイスラーム系単独政権が発足した。この政権はイラク戦にも派兵せずアラブ寄りの姿勢を示したためEU側にはトルコ共和国の加盟に反対する声も起こってきた。ヨーロッパではイスラーム教に対する拒否反応も強く、トルコ共和国のEU加盟はなおも難航が予想される。トルコの世俗主義の動揺はヨーロッパの不安定要素になりうることとして注目されている。また国内にはクルド人の独立運動を抱えており、もう一つの不安定材料となっている。

Episode スカーフ着用問題で裁判官銃撃される

 2006年5月17日、アンカラの最高裁判所にあたる国家評議会の建物内で、短銃が乱射され、判事が一人が死亡、5人が負傷するという事件が起こった。犯人は29歳の現役弁護士だった。今年2月、幼稚園の女性教諭が通勤途中にスカーフを頭にかぶっていたことを理由に昇進を拒否されたことで裁判となり、この裁判で女性に不利な判決を出した判事が射殺されたのだ。女性がスカーフで顔を隠すのはイスラームの教えであり、トルコ共和国では政教分離と世俗主義の国是により、教育現場や公共の場では禁止されている。憲法上の規定があるわけではないが、長年の司法判断で定着させてきたものだ。しかしイスラームへの復帰を主張する勢力はスカーフ問題を世俗主義反対の象徴として取り上げるようになった。この事件ではマスコミの反応はスカーフ着用を社会に強要しようというイスラーム原理主義の犯行として非難しているが、親イスラーム的な政府はむしろアルコール禁止などのイスラーム的政策を打ち出そうとしれいる。トルコ共和国の脱イスラームと政教分離、世俗主義の原則は建国80年以上を経て大きな曲がり角に来ている。<2006年8月19日 朝日新聞記事より>