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ギリシア=トルコ戦争/侵入ギリシア軍との戦い

第一次世界大戦後の1919年5月~22年、ギリシアが小アジア西岸からトルコに侵攻した戦争。トルコが撃退に成功してイズミルを奪回。戦争を指導したムスタファ=ケマルの主導権が確立し、トルコ革命を完成させる。

 オスマン帝国から1830年に独立したギリシアは、オスマン帝国の支配地として残るギリシア人居住地を統合してギリシア国家を完成させるという「大ギリシア」主義の願望を持っていた。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、「大ギリシア」を実現する好機と考え、トルコの混乱に乗じて小アジアに出兵を実行した。それはイタリアが小アジア進出を狙っていたことにたいする措置でもあった。
 1919年5月、ギリシア軍は小アジアのスミルナ(トルコではイズミル)に侵攻した。この侵攻はイギリスのロイド=ジョージ首相も支持した。すでに国際連盟が発足しており、その調停力が試される機会であったが、関係各国の思惑が対立し、十分な調停はできなかった。
 こうしてギリシア=トルコ戦争が始まり、オスマン帝国のイスタンブル・スルタン政府はなすすべがなく、ギリシア軍は進撃してアンカラに迫った。しかしアンカラでスルタン政府から自立していたムスタファ=ケマルは、20年4月にアンカラにトルコ大国民議会を招集し、トルコ国民軍を組織してギリシア軍に対するゲリラ戦を展開して抵抗した。国民的な支持を受けたが新政権は態勢を整えて反撃に移り、21年にサカリャ川の戦いでギリシア軍を破り、さらに追撃して22年にはイズミルを奪回、ギリシア軍を撤退させた。この戦いの勝利によって同年、大国民議会はスルタンの廃止を決定し、翌年にはトルコ共和国樹立を宣言した。トルコ共和国にとってはまさに独立のための戦いでありそれを勝利に導いたケマルの名声が一挙に高まることとなった。

解放戦争か祖国防衛戦争、独立戦争か

 この戦争はギリシア側からはスミルナのギリシア人をトルコから解放する解放戦争(たしかにスミルナにはギリシア系住民が多かった)のための戦争となるが、トルコ人にとっては世界大戦での敗戦に乗じたギリシア軍の侵略に対する祖国防衛戦争であり、さらにトルコ共和国にとっての独立戦争であったと捉えられており、評価が百八十度異なっている。従って、この戦争の歴史的名称も定まっていない。日本の高校教科書では、ケマル=パシャの勝利の文脈で触れることが多いので、山川出版の世界史用語集では「侵入ギリシア軍との戦い」という全くトルコ側に立った事項名としている。
 また、ギリシア軍がスミルナから撤退した跡、トルコ軍がギリシア人・アルメニア人を殺害し、また港からギリシア本土に逃れようとした多数の難民を載せた船が転覆するなど、多数の犠牲者が出たことをギリシア側は非難しており、一方トルコは、ギリシア軍はスミルナの文化財を破壊して撤退したと非難している。このように双方の軍隊による残虐行為に対する敵愾心は、その後もキプロス島問題、さらにエーゲ海の島々の領有を巡る対立として続いており、小アジア西岸は国境紛争を抱える地域となっている。

住民の交換

 ギリシア=トルコ戦争の講和によって1923年のローザンヌ条約が成立、両国の対立の要因を排除する目的で、ギリシアのヴェニゼロス政権とトルコ共和国のムスタファ=ケマルの間でそれぞれの国内に居住している住民を交換することが定められた。住民交換の根拠は「宗教」とされ、トルコ側からギリシアへ約110万のキリスト教徒が移住、ギリシア側からトルコへ約38万のイスラーム教徒が移住するという内容での「住民交換」が行われた。
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ノートの参照
第15章3節 カ.トルコ革命とイスラーム諸国の動向