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イオニア地方/イオニアの反乱

エーゲ海に面した小アジア西岸のイオニア地方は、入植したギリシア人がオリエント文明に接触し、商業活動を活発に行い、早くから文化が開けた。ミレトスでは自然哲学が生まれ、ギリシア哲学の先駆となった。前5世紀初め、この地方のギリシア系都市がペルシア帝国の支配に対して反乱を起こしたことからペルシア戦争が始まった。

イオニア地方

イオニア地方
黄色部分がイオニア地方の中心部
 イオニア地方は小アジア(またはアナトリアともいう)の西岸で、早くからギリシア人の東方系方言を話す一派であるイオニア人が移住してミレトスなどの植民市を建設していた。伝承ではイオニア地方のポリスはアテネを本市として入植した人々であるという。
 イオニア地方はエーゲ海に面し、また黒海方面やオリエントへのルート上にあって商業が発達していた。そのため早くからイオニア自然哲学が盛んな先進地域となっていた。前6世紀前半には、ミレトスにタレースやアナクシマンドロス、エフェソスヘラクレイトスらが現れ、自然の哲学的な探求を開始した。しかし、イランに興ったアケメネス朝ペルシアは前6世紀中頃までに小アジアに進出し、イオニア地方もその遅配を受けることになった。

イオニアの反乱

 前500~494年、イオニア地方のギリシア人植民都市がペルシア帝国に対して起こした反乱をイオニアの反乱という。続くペルシア戦争の導因となった。
 イオニア地方のギリシア人殖民都市もペルシア帝国の支配下に入り、自治は認められたが貿易は制限されるなど厳しい干渉を受けていた。ペルシア帝国のダレイオス1世からスキタイ遠征への出兵を強要されたイオニア諸都市は反発を強め、前500年にミレトスを中心にしてペルシア帝国に対する反乱を起こした。支援を要請されたアテネは援軍を送ったが、前494年、ミレトスが陥落して反乱は鎮圧された。ダレイオス1世はアテネがイオニアの反乱を支援したことに対し、その報復を口実に出兵を計画、前492年からギリシア遠征軍の派遣を開始、ペルシア戦争の勃発となる。

近現代のイオニア地方

 小アジア(アナトリア)の一部でありながら、ギリシア人が移住し、ギリシア文化圏を形成したと言うことから、小アジアにトルコ系民族が進出してからは、ギリシアとトルコの紛争の地となった。  オスマン帝国(トルコ)の支配下にあっても、依然としてギリシア系住民が多かったため、第一次世界大戦後にオスマン帝国がドイツ側に参戦し、形勢が不利になった情勢のもとで、ギリシア軍がイオニア地方の都市スミルナ(トルコではイズミル)に侵攻してギリシア=トルコ戦争が起こった。それを撃退したムスタファ=ケマルが主導してトルコ共和国を樹立することとなる。その結果、イオニア地方の大陸側はトルコ領、島嶼部はギリシア領という分け方で一応の決着がつけられたが、ギリシアとトルコの間で大規模な「住民交換」が行われ、双方に多くの苦難をもたらされた。現在もギリシアとトルコの間には、キプロス紛争など、火種が続いている。
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ノートの参照
1章2節 キ.ペルシア戦争とアテネ民主政