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近代のギリシア(1) 独立と王政移行

1830年、オスマン帝国からの独立が承認さた。当初共和国だったが31年に列強から王政を強要された。

 ギリシアは世界史のなかで最も長い歴史を持つ地域であるが、近代ギリシアの歴史はオスマン帝国からのギリシア独立戦争を経て1830年に独立が国際的に認められたところから始まる。古代ギリシア文明の発祥の地であり、ビザンツ文化の繁栄した地でもあったが、1453年からはイスラーム教国でトルコ人の国家であるオスマン帝国の支配を受け続けていたので、その国家統合にはギリシア語論争など、困難な問題があり、また回復されていないギリシャ人居住地も多かった。 → ギリシャ人
 → (2)ギリシア語論争  (3)第一次世界大戦・ギリシア=トルコ戦争  (4)ギリシアのファシズム  (5)第二次世界大戦と戦後の混乱  (6)ギリシアの民主化

最初は共和国だった

 1830年に独立した当初は共和国として発足したが、初代大統領(カポディストリアス)は31年に暗殺された。イギリス、フランス、ロシアの列強は王制とすることを条件として支援したので、ヨーロッパの王家の中からドイツのバイエルンの王子オットーを迎えることとなった。それがギリシア王国初代のオトン王(オットーのギリシア名)。このようにギリシア人は外国人の国王をあてがわれて独立を認められた。オトン王はギリシアの伝統を無視してドイツ風の統治を行おうとしてうまくいかず、また後継者もいなかったので退位し、1864年には列強はデンマークの王族グリュックスブルク家のクリステイアン・ウィリアム・フェルディナンド・アドルフス・ゲオルク王子を選び、ギリシア風にゲオルギオス1世と名乗った。この王家が中断をはさみながらも1974年までギリシャを統治した。古代に繁栄したアテネがギリシア王国の都として復活した。 → 立憲君主政

大ギリシア主義

 このギリシア王国は、ほぼペロポネソス半島とエーゲ海のいくつかの島々だけで現在のギリシアから見ればごく限られた地域を占めるだけであった。マケドニアやクレタ島、小アジア西岸に多くのギリシア人がいたが、彼らは依然としてオスマン帝国の支配を受けることとなった。そのため、ギリシア人の中かから、小アジアも含めてのギリシア人居住地域すべてをギリシアとして統合すべきであるという大ギリシア主義(メガリ・イデア)が起こってくる。

近代ギリシア(2) ギリシア語論争

独立後のギリシアにおける公用語を、民衆語にするか古典ギリシア語にするかという論争。

 ギリシア語論争とはギリシアの公用語を何にするか、という論争であるが、対立したのは、民衆に広く用いられていた民衆語(ディモティキ)か、古典ギリシア語を復活させた古典語(カサレヴサ)のいずれにするか、ということであった。インド=ヨーロッパ語系のギリシア人はいくつかの方言に分かれていたがヘレニズム時代にアテネを中心としたアッティカ語が各地の方言と混合してコイネーが生まれ、それが「ギリシア語」として公用語とされ、ビザンツ帝国時代まで使われた。オスマン帝国時代には公用語ではなくなり、ギリシア正教会の中の特殊な言葉として残っていた。民衆の中では長い時間と異文化の影響の中で大きく変化し、民衆語「ディモティキ」が形成されてきた。両者は文字は同じだが、文法や発音ではかなりの違いがある。
 19世紀に西欧諸国でギリシアを西欧文明の起源の地として尊崇する動きであるギリシア愛護主義が盛んになると、その影響を受けて古典語(カサレヴサ)を復活させ、公用語としようと動きが強まり、ギリシア王国では学校教育の中で強要されるようになった。民衆にとってはそれは学校の中で教えられるだけの、いわば文語だった(日本で言えば古典や漢文)ので、苦痛になるだけだった。最近までこのいずれを公用語とすべきか論争(ギリシア語論争)が続いたが、1976年にようやくディモティキを公用語とすることが決まった。 → ギリシアの民主化 

近代ギリシア(3) 第一次世界大戦・ギリシア=トルコ戦争

ギリシア王国は第一次世界大戦に連合国側で参戦。戦後、トルコの領土を侵犯し、ギリシア=トルコ戦争となる。

外国の干渉続く

 ギリシア王国はその初めから外国の力を借りて独立したという弱みが続き、その後もイギリス、フランス、ロシア、そしてオーストリアとドイツという列強のバルカン半島に翻弄され、王政は安定せず政治的混乱が続いた。その一方で、ギリシア人にはトルコ(当時はまだオスマン帝国)領内のギリシア人居住地を統合しようという大ギリシア主義の考えが続いており、当時トルコ領であったクレタ島などで激しいギリシアとの統合を求める暴動が起こっていた。

バルカン戦争

 オスマン帝国で1908年に青年トルコ革命が起こって動揺すると、それに乗じたギリシアはバルカン諸国とともにバルカン同盟を結成し、第1次バルカン戦争ではオスマン帝国と戦い、第2次バルカン戦争ではブルガリアと戦って領土を広げた。

第一次世界大戦とギリシア

 第一次世界大戦が開始された当初、ギリシアは中立を宣言した。イギリスはオスマン帝国が同盟国側に参戦したためダーダネルス=ボスフォラス海峡をドイツ軍に抑えられることを警戒し、フランス軍とともに1915年4月にダーダネルス海峡の入口にガリポリ上陸作戦を行ったが、トルコ軍の抵抗を受けている間に同年10月、ブルガリアが同盟国側に参戦したため、失敗した。そこでイギリスはバルカン戦線の橋頭堡としてギリシアのサロニカに上陸した。これによって中立を宣言していたギリシアも、態度を明確にしなけれがならなかったが、国王は同盟国側を支持し、首相は連合国に肩入れするという内部対立に陥った。結局、1917年6月になってギリシアはイギリスの圧力に屈した形で連合国(協商国)側に参戦した。こうしてサロニカからバルカンに進出した連合国軍はブルガリアを戦線から脱落させることに成功し、戦局が大きく動くことになった。
 このように第一次世界大戦で連合国側に立って勝利者となったギリシアはパリ講和会議に出席し、イギリス・フランスに対して参戦の見返りとして敗戦国トルコから領土を割譲することをで主張した。

ギリシア=トルコ戦争

 ヴェルサイユ条約でギリシアの主張が認められなかったので、ギリシア軍は1919年5月、オスマン帝国領の小アジア西岸スミルナ(イズミル)に侵攻、ギリシア=トルコ戦争を起こした。ギリシア軍はイギリス軍の支援を受け、アンカラ近くまで進撃し、その間の1920年、パリ講和会議でトルコがセーヴル条約を連合国側と締結し、ギリシアは5年間のスミルナ管理権を得て将来の併合を可能にした。しかし、トルコ国民は激しく反発し、ムスタファ=ケマルの率いるトルコ国民軍が反撃医転じてたためギリシア軍は後退し、さらに1922年に戦意に勝るトルコ軍によってスミルナを奪回され、敗北に終わった。

強制的な住民交換

 翌1923年にはトルコ共和国が連合国と結んだローザンヌ条約で小アジアを完全に失い、トルコとの間に住民交換を行った。その根拠は「宗教」とされ、言語や「民族としての自覚」ではなかった。小アジアのギリシア正教キリスト教徒の多くはトルコ語を話し、ギリシアのとくにクレタ島のイスラーム教はギリシア語を話した。イスタンブルのギリシア人はギリシア正教の総本山である世界総主教座と共に交換の対象にはされなかった。同じくトルコ系が優位を占めていたギリシアのテッサリア地方のイスラーム教とも対象外とされた。
(引用)人びとに大変な苦痛を強いるという恐るべき結果をもたらしたが、この強制移住措置に代わる現実的な方策はなかっただろう。残虐行為と復讐が繰り返されるうちに、ギリシアとトルコの平和的共生の可能性は修復が望めないところまでに達していた。小アジアの「破滅」や続く住民交換の結果、約110万のギリシア人が(ギリシア王国)に、逆に約38万のイスラム教徒がトルコに移された。さらに革命ロシアとブルガリアから約10万のギリシア避難民が到来した。戦争、逃亡、国外追放が当然生んだ混乱が反映され、受けいれた避難民のなかでは、女性(とくに未亡人)と孤児(人口約600万のなかで2万5千人ほど)の割合が飛び抜けて大きかった。避難民の大半はトルコ語しか知らなかった。・・・彼ら新入りは迎え入れた王国の住民から毛嫌いされた。<クロック/高久暁訳『ギリシアの歴史』創土社 p.113>

一時は共和政となる

 この混乱の中で1924年に王政から共和制に移行し、ヴェニゼロスの指導のもとトルコとの和解も図られた。しかし経済の不振が続き(19世紀末から多くのギリシア人がアメリカ大陸に移民となって移住した)政党政治への不満からファシズムが台頭し、1935年には王政が復活、36年にメタクサス将軍による軍事独裁政権が生まれ、第二次世界大戦の時期にはいる。

近代ギリシア(4) ギリシアのファシズム

王政復古の後、軍人メタクサスが独裁権力を握り、ファシズム的支配を行う。第二次世界大戦ではイタリア・ドイツの侵攻を受ける。

共和制から王制へ

 ギリシアでは1924年に王政から共和制になり、28年からヴェニゼロスが政権に復帰、トルコとの和解を進めた。ところが、35年、ヴェニゼロス派の軍人のクーデタ失敗で亡命し、混乱収拾のため国民投票が行われ、再び王政となった。議会は人民党(王政支持)と自由党(共和派=ヴェニゼロス派)が拮抗、一方で共産党(1918年結成)がキャスティングボードを握る状況となった。国王ゲオルギオス2世は、陸軍の軍人で極右政党の自由思想家党指導者のイオアニス=メタクサス将軍を首相に任命した。
(引用)労働不安が広がるとともに危機感は激化した。世界恐慌の結果、主要な輸出産品であるタバコは大きな打撃を受けた。テッサロニキではタバコ労働者がストライキを行い、ストライキ参加者のデモで警官隊が十二人を銃撃した。「政界」を露骨に軽蔑していたたメタクサスは、無能そうな政治家たちにつけこんで対立をあおり、深刻な労働問題に便乗して「強い」政府を作るという自分の提案を国王に受け入れさせた。自由党と人民党の間の土壇場の取引を拒絶した国王は、一九三六年八月四日、翌日に共産党が呼びかけていた二十四時間のゼネスト阻止を口実に、メタクサスに憲法の主要条項の一時的失効を黙認した。説得力があるとはいえないが、これをメタクサスは権力を求める取引の序曲と見た。<クロッグ『ギリシアの歴史』 p.122>

メタクサス独裁政権

 1936年8月4日(昭和11年、日本の二・二六事件と同じ年)、ギリシアでは共産党を抑えることを掲げたメタクサス将軍の軍事クーデタが成功、憲法は停止され、独裁政権が成立した。
(引用)「一九三六年八月四日体制」(メタクサスは自分の独裁体制を好んでこう称した)の成立は、一九三〇年代終りに全バルカン諸国で生じた王家独裁制に向かう趨勢の一つと見ることができる。体制成立の要因は、不安定な議会体制が不景気から生じた圧力に応えられなかったためだ。メタクサスの独裁政治はその批判者から全体主義であると非難されたが、それにはドイツのナチズムやイタリアのファシズムに備わっていたダイナミズムが欠けていた。むしろメタクサスの体制はファシスト風の修辞とスタイルでメッキされた、権威主義的で後向きかつ温情主義的な独裁制であり、ポルトガルのサラザールの法人国家に少なからず負うものだ。
 メタクサスは超保守派としては珍しく俗物ではなく、民衆語デイモティキを支持した。初めて作られた民衆語の正式な文法書を依頼するとき、メタクサスはいかにもこの人物らしく、自分がこれを行うのは、文法の規則をギリシャ人の抑制のない個人主義の矯正に役立たせるためだ、と述べた。前後のギリシャ独裁者の例に漏れず、メタクサスも手に負えない同国人に「規律」を教えこむという考えにとらわれていた。メタクサスはヒトラーの第三帝国から借用した「第三ヘレニズム文明」なるものを説いたが、これにはこの独裁者につきものの平衡感覚の欠如が表れている。これは、メタクサスの指導の下で、古代ギリシャの異教的価値観(とりわけスパルタのもの)と中世ビザンティン帝国のキリスト教価値観を合成させるというものだった。メタクサスは自ら「第一農夫」「第一労働者」「首領」「民族の父」と称したが、実際の姿とは程遠かった。もっとも、そのポピュリスト的で反金権政治的なレトリックは誠実さに欠けていたわけではなかったが。メタクサスは若者を無理やり民族青年組織に参加させ、この組織を用いて死後も自分の理想を追求させるつもりでいた。メタクサスは「政界」全体に対する悪意をあからさまに表したが、最左派に対する嫌悪は留保した。<クロッグ『ギリシアの歴史』 p.122>

近代ギリシア(5) 第二次世界大戦と戦後の混乱

第二次世界大戦でギリシア・ドイツ軍の侵攻を受ける。戦後、共産勢力の浸透が強まり、イギリス、次いでアメリカが介入して内戦状態となる。

 ギリシアは第二次世界大戦中、右翼軍事政権が成立、1940年にはイタリア軍の侵攻を撃退したが、ナチス・ドイツがバルカンに進出してくるとそれに屈服し、国王は亡命した。ギリシア国土はドイツ、イタリア、ブルガリアに三分された。国内では共産党のレジスタンスが組織され、当初イギリスもソ連もそれを支援した。

英ソの身勝手な分割協定

 1944年にドイツ軍が撤退すると、10月、チャーチルとスターリンはパーセンテージ協定を結び、ルーマニアはソ連が、ギリシアはイギリスがそれぞれ90%支配、ユーゴスラヴィアとハンガリーは50%ずつ、という分割支配を約した。
 この協定に基づきギリシアを管理することとなったイギリスは、国王の復帰を策したが、共産党勢力などが抵抗し、1946~49年までイギリスに後押しされた国王派と共産党勢力による激しい内戦となった。

トルーマン=ドクトリン

 内戦に手を焼いたイギリスはギリシアから撤退、代わってトルーマン=ドクトリンを掲げたアメリカが介入し、共産党勢力を徹底的に弾圧し、内乱を終わらせ、国王を復帰させた。それ以後、ギリシアはトルコとともに東ヨーロッパのソ連圏に対峙する最前線の西側国家としてNATOに加盟し、軍事体制強化が続く。

Episode 映画『旅芸人の記録』

 1975年に作られたギリシアの映画作家テオ=アンゲロプロスの『旅芸人の記録』は、旅芸人一座を通して、第二次大戦前後のドイツ、イギリス、アメリカの支配、軍部・王政派と共産党ゲリラの抗争といったギリシア現代史が描かれている。4時間を超える長大な作品で、描写も淡々としていて最後まで見るのはたいへんかもしれないが、1カットごとに時代を感じさせる見応えのある作品である。出てくる年代をメモしながら観ると、ギリシア現代史の勉強になる。

近代ギリシア(6) ギリシアの民主化と現代

1975年、国民投票により王政廃止され、共和政となる。

 第二次世界大戦後のギリシアは、イギリス、ついでアメリカの支援を受けた国王派と、共産党勢力の激しい内戦で荒廃し、1949年内戦が終わって王政のもと立憲政治が行われていたが、政情は不安定であった。北にアルバニア、ユーゴスラヴィア、ブルガリアの共産圏に接しているため、アメリカはNATOの一員としてギリシアにテコ入れし、それを背景に軍の発言権が増し、政党間の争いに飽き足らない民衆の気分を受けて1967年軍事クーデターが起きて軍部が政権を握った。

国民投票で王政廃止

 しかし1974年、軍事政権がキプロス島の親ギリシア政権マカリオス大統領を追放しようとしてトルコ共和国軍のキプロス侵攻をもたらして国民の信望を失い、軍事政権は倒れカラマンリス首相の指導で民主化が進められることとなった。1975年には国民投票が行われ、圧倒的多数で王政廃止とされ、共和政となった。<クロッグ『ギリシアの歴史』創土社 参照>

ギリシア共和国

 現在のギリシア共和国は、南を東地中海、西をアドリア海、東をエーゲ海に面し、バルカン半島の南端に位置する。国土は日本の約3分の1で、人口は約1000万。首都はアテネ。宗教はギリシア正教が大半を占めている。言語は現代ギリシア語(古代のギリシア語とは異なる)。 → 古代のギリシア  近代のギリシア王国

現代のギリシア

 1975年に軍政を倒してギリシアの民主化を達成、国民投票で王政から共和政に移行した。その後、カラマンリスは大統領(80~85年、90~95年)となり、社会主義政党パソックを率いるパパンドレウ首相のもとで、政治の安定、経済の発展が実現し、1981年にはヨーロッパ共同体(EC)に加盟し、2004年にはアテネでオリンピック開催を実現させた。
 外交では、トルコとの関係は、共産圏と対峙している間は良好であったが、1980年代末、東欧社会主義圏崩壊さらにソ連崩壊の後は、領土問題が再燃し、キプロス問題、エーゲ海領海問題などで緊張したものとなっている。また、ユーゴスラヴィアの解体に伴うマケドニアの独立に対しては、マケドニアの国名を称することにギリシアは強く反発している。

ギリシア財政危機

 2010年、ギリシアの財政赤字が膨大であることが判明し、国債の債務不履行の不安から一気に危機が広がった。ギリシアの歴代政権が放漫な財政運営を続けた結果であったが、新政権は公務員の人件費の大幅抑制、公共事業の凍結などを打ち出したため、国民に負担を強いることになるとの反発が激しく、ストライキが続発した。このような危機はEU加盟国内の財政不安を抱えているスペインやポルトガルに飛び火する恐れがあり、そうすればEU全体の経済が麻痺する恐れがあったため、EUは巨額の支援をギリシアに与え、強引に危機を乗り切った。このことは、EU内のドイツやフランスなど先進地域の国民に、ギリシアのような貧困国をわれわれが救う必要があるのか、という疑問の声を強めることとなり、ヨーロッパ統合の行方に大きな暗雲をもたらしている。
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ノートの参照
第15章4節 カ.ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成
第16章1節 イ.ヨーロッパの東・西分断
書籍案内

リチャード・クロッグ
/高久暁訳
『ギリシアの歴史』
ケンブリッジ版世界各国史
2004 創土社
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テオ・アンゲロブロス監督
『旅芸人の記録』
1975 ギリシア映画