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ヴァイマル共和国/ワイマール共和国

1919~33年までのドイツ共和国、ヴァイマル憲法下の国家を言う。

 1919年7月のヴァイマル憲法制定から、1933年のヒトラー政権の成立までのドイツ共和国を特にヴァイマル共和国という。ワイマール共和国とも表記。ヴァイマル憲法の下で国民の直接選挙で選ばれる大統領制、議会制が実現し、社会民主党を中心とした連立内閣が続いた。
 7月31日に新憲法が制定され、社会民主党のエーベルトが臨時大統領に選出された。社会民主党はドイツ第二帝国が崩壊した後、社会主義革命を目指したスパルタクス団の蜂起を抑え穏健な社会改良政策を進めた。しかし、ヴェルサイユ体制での賠償金など過酷な負担を強いられ、激しいインフレで経済は疲弊し、左からは労働者の不満を吸収したドイツ共産党の進出と、右からは反ヴェルサイユ体制を唱える国家主義運動であるナチズムが台頭し、政治・社会の動揺が続いた。一面では実現された平和の中で、人々はヴァイマル文化と言われる生き生きとした文化を生み出した時代でもある。

ヴァイマル共和国の時期

 ヴァイマル共和国はわずか14年しか存続しなかったが、次の三つの時期に区別することができる。
  • 成立から1924年 インフレをを背景に、右と左からの一揆、また主に右からの数多くの政治的暗殺があった。エーベルトが大統領、シュトレーゼマンは首相や外相として活躍した。特に1923年1月には賠償金不払いを口実としたフランスとベルギーがルール占領を強行、それに対して「消極的抵抗」を行い、ゼネスト状態となったため生産はストップ、急激なインフレとなった。そのような中で首相となったシュトレーゼマンはレンテンマルクを発行して経済を安定させ、「消極的抵抗」を打ち切って「履行政策」に転換、国際協調路線を模索した。履行政策に反対する右派勢力は、11月のヒトラー・ナチ党のミュンヘン一揆を起こしたが、鎮定された。1924年8月には懸案の賠償問題が、ドーズ案の成立で解決の道筋がつけられ、ドイツにはアメリカ資本の支援が行われることによって、生産力も回復した。
  • 1925~29年 意外にも外見上は強化された「黄金の」20年代後半。ヒンデンブルクが大統領(1925~34)を務める。旧軍人の大統領の登場で右派も満足し、ヒンデンブルク大統領自身も憲法と共和国に従うことを表明したので、安定した。この間、シュトレーゼマン外相の主導によるロカルノ条約調印や国際連盟加盟が実現した。しかし、1929年の世界恐慌によって安定は一転、危機に変わった。社会民主党は共和政擁護のため労働組合との連携を強めたが、共産党は社会民主党を社会ファシズムと規定して否定し、社共間の統一戦線はつくられなかった。社会民主党、共産党共に革命近とみていたが互いを敵として認識し、ナチ党を過小評価していた。
  • 1930~33年 かなり唐突にきた解体期とヒトラーが権力掌握を準備した時期。1930年、9月の総選挙でナチ党は大躍進、第2党となり無視できない勢力となった。翌31年には恐慌の影響が深刻になり、銀行の倒産、失業者の急増という社会不安が進む中、ナチ党などの右派は再軍備などのヴェルサイユ体制の打破、議会政治の否定、共産主義者やユダヤ人の絶滅を声高に叫ぶようになり、それに対する労働者の中の極左派との抗争が相次ぐ。1932年4月、大統領に再任されたヒンデンブルクは、7月の総選挙で議席230をとってついに第一党となったナチ党の党首ヒトラーに対し、1933年1月30日、首相就任を要請した。

共和国の弱点

 これらの各時期を通じて一貫していたヴァイマール共和国の事情には次の二点が指摘されている。
  • ヴァイマル憲法に賛成した社会民主党・ドイツ民主党・中央党の三党がヴァイマル連合を形成し、国民議会で多数を占めた。ところがこの中には君主制を回復しようとする勢力、共産主義革命を目指す勢力が混在していた。選挙ごとに政権の組合せが代わり、政府はいずれも即興のもので短命だった。
  • ヴァイマル連合の中心になった社会民主党は綱領上は共和主義であったが、エーベルトに見られるように君主政的志向も強かった。また、第二帝国以来の制度、軍隊・官僚・司法・教会・大学・大農業と大工場は社会民主党への協力を拒否した。
 またエーベルト大統領自身が議会から選出されたに過ぎず、ヴァイマル憲法による選挙で国民から選ばれた大統領でなかったという弱点もあった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.186-191>
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ノートの参照
第15章2節 ウ.西欧諸国の停滞