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ドイツ賠償問題

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でドイツに課せられた1320億マルクにのぼる賠償金の支払い問題。イギリス・フランスはドイツからの賠償金をアメリカへの戦債返還に充てた。ドイツの賠償金は高額に上り支払いが困難で滞ったため、フランスは代償として1923年にルール占領を行うなど再び戦争の危機となったが、1924年にドーズ案などアメリカ資金の提供と賠償額の減額がなされ解決に向かった。しかし世界恐慌によって資金が循環できなくなり、また賠償金支払いを拒否するナチスが台頭したため、1930年代に未解決のまま事実上消滅した。

 ヴェルサイユ条約によってドイツ共和国は賠償金支払いの義務を負うことが決まった。実際の賠償金については未定であったが、1920年7月、戦勝国側の賠償委員会はまず各国の受け取り割合を取り決め、フランス52%、イギリス22%、イタリア10%、ベルギー8%などとし、1921年4月に総額を1320億金マルクと決定、5月5日にドイツ側に対し、6日以内に認めなければ連合国は再びドイツに軍事攻撃を加え、ルール地方を占領すると最後通牒を通告した。

賠償額1320億金マルク

 この1320億金マルクはドイツにとって「天文学的数字」であった。ドイツ側の想定では300億金マルク程度を予想していたので、この数字はドイツにとって壊滅的な打撃と受けとられた。1320億金マルクの3分の2はドイツが支払い能力を持つに至るまで賠償委員会に据え置かれ、3分の1は毎年20億金マルクの確定年次金と毎年のドイツの輸出額の25%に当たる金額を、1年を4期に分けて支払う、とされた。経済学者ケインズは、ドイツの支払いの能力を最大限400億金マルク(=20億ポンド=100億ドル)と見積もっている。1320億金マルクは本来無理な算定であった。<齋藤孝『戦間期国際政治史』岩波現代文庫 旧版 p.74>
ラーテナウの暗殺 ドイツでは最後通牒をうけて内閣が交代し、新内閣がやむなく最後通牒を受け入れ、第一次分割支払いに応じた。しかし国内の右派や重工業資本家は強く反発しフランスに対する憎悪をかき立てる宣伝を行った。その犠牲となったのが、賠償金の履行政策を進めていた外相ラーテナウで、彼は1922年6月、右翼軍人によって暗殺された。

イギリス・フランスの温度差

 イギリス・フランスは、ドイツからの賠償金を、アメリカからの大戦中の戦債にあてて返済しなければならないという事情では共通していた。しかし、そのドイツに対する取り立てについてイギリスとフランスで温度差があった。イギリスは、ドイツに対する過度な賠償金の取り立ては、ドイツ経済を破壊する恐れもあり、それはドイツを貿易相手としているイギリス資本主義にとっても不利でありヨーロッパの経済の成長にもマイナスになると考え、ドイツに対する要求は抑制的であった。
 しかし、賠償金総額の52%(1925年に増額されて54.45%)を受けとることになっていたフランスは、戦闘ではドイツ軍に敗れており、直接国土を蹂躙されたという感情からくる復讐心が強く、大戦前から工業力が優っていたドイツが復興することは脅威であると感じていた。パリ講和会議でもクレマンソーは、ドイツに対し「カルタゴ的講和」を強要することでドイツの一切の報復の可能性を奪うという基本姿勢をもって臨んだが、その後もポワンカレなどの指導者の意識は変わっていなかった。

ジェノヴァ会議

 イギリスのロイド=ジョージが提唱して、1922年4月、ジェノヴァ会議が開催され、賠償問題で対立するフランスとドイツを含むヨーロッパの29ヵ国が参加して、ヨーロッパ経済復興国際会議が開催された。これはロシア革命後、初めてソヴィエト政権が代表を送った国際会議として注目を集めた。フランス・ドイツ間の賠償問題は解決できなかったが、ドイツとロシアはこれをきっかけに急接近し、会議開催中にラパロ条約を締結、相互に承認して国交を開くこととともに、賠償金を相互に放棄することを取り決め、たのヨーロッパ諸国を驚かせた。

フランスのルール占領

 1923年1月、フランスのポワンカレ右派内閣は賠償の不履行を理由にベルギーとともにドイツに出兵し、ルール占領を強行した。ポワンカレは賠償が支払われない場合は、ルール地方の石炭をフランスが直接採掘することを認めよと要求、「生産的担保」と称していたのである。
 工業地帯であり、鉄と石炭の産地であるルール地方をフランスに押さえられ、ドイツでは激しい反発が起こったが、直接的な抵抗を行う武力は無く、政府の指示もあって労働者はゼネストに突入、サボタージュを実行し、市民もフランス・ベルギー軍に協力しないという「消極的抵抗」を行った。そのため生産力は激減し、急激な品不足、つまりインフレーションが進行した。

シュトレーゼマンの履行政策

 ヴァイマル共和国(ドイツ共和国)では、8月に内閣を組織したシュトレーゼマンが、社会民主党の協力を得て、「消極的抵抗」の中止を宣言し、財政再建と国際協調を表明、さらにシュトレーゼマンはレンテンマルクの発行に踏み切り、インフレの解消に努めた。それによって賠償を支払う「履行政策」に転換することを模索しはじめた。
 そのような中で反ヴェルサイユ体制を主張するヒトラーのナチスによるミュンヘン一揆のような右派のクーデタ未遂事件もおこり、社会不安は深くなっていったが、シュトレーゼマン内閣のもとで徐々に安定を取り戻していった。

ドーズ案 支払い年額の減額

 賠償金の履行を約束したシュトレーゼマンはアメリカの援助を求めた。アメリカもドイツがイギリス・フランスに賠償金を支払えなくなると、イギリス・フランスに対するアメリカの債権も放棄しなければならなくなる恐れがあったので、ドイツを救済する必要に迫られ、1924年のドーズ案を提示した。ドーズ案は標準の年支払金額を25億金マルクとし、むこう4年間はその金額を減額するという緩和策であった。これによって当面の賠償問題の危機は解消され、それを受けてフランス・ベルギー両国軍もルールから撤退した。

ヤング案 総額を358億金マルクに減額

 それでも、ドーズ案では賠償金総額は減額されておらず、ドイツにとってはなおも過重なものであった。長期的に見ればドイツの不安を解消することはできなかった。1920年代の繁栄のただ中にあったアメリカは、1929年にヤング案を作成し、賠償金のさらなる減額や支払期限の軽減をはかった。ヤング案では賠償金総額は、358億金マルクとして大胆に削減し、返済期間を緩和して59年間とした。 → アメリカの外交政策

世界恐慌

 しかし、ドイツ賠償金問題はアメリカ資本が世界経済を支配する構造を作り上げ、1929年アメリカに大恐慌がおきると、それがたちまちヨーロッパに広がり世界恐慌となる素地を作ってしまった。フーヴァー大統領はフーヴァー=モラトリアムを発表して賠償金の1年間支払い停止としたが、解決にならず、世界恐慌はさらに深刻になった。

ローザンヌ会議 総額30億金マルクまで減額 実行されず

 フーヴァー=モラトリアムは1年間の限定祖地であったので、それが満期を迎えることに備えて1932年、ローザンヌ会議が開催された。そこで賠償金は最終的に30億金マルクまで減額されたることになった(ローザンヌ協定)。しかし、この会議にはアメリカが参加しておらず、イギリス・フランスは賠償金減額と同時にアメリカに対する戦債の減額を求めたが認められなかったため、ローザンヌ協定は批准されなかった。1930年代は、20年代の国際協調の精神が失われていたのだった。

賠償金の消滅

 ドイツでは翌1933年、ナチス政権が成立、ヒトラーはヴェルサイユ体制打破、賠償金支払い拒否を公約していたので、結局賠償金の残りは支払われることはなく、事実上、消滅する。
 イギリスとフランスはドイツからの賠償金が入らなくなると、自国の戦後復興が困難になるだけでなく、アメリカへの戦債の支払いができなくなるので、ローザンヌ協定の批准の条件としてアメリカに対して戦債の帳消しを要求した。しかし、アメリカはそれに応えず、結局ローザンヌ協定は実行されることなく、ドイツの賠償金、イギリス・フランスの対米戦債はうやむやのうちに消滅した。  賠償問題の消滅は、第一次世界大戦とヴェルサイユ体制でつくり出された、ドイツ賠償金とアメリカへの戦債の支払いによって資金が回るという世界経済の構造が、それ自体が構造的要因となった世界恐慌によって崩れ去ったことを意味していた。資本主義諸国のうち、植民地や勢力圏を持つ強国はブロック経済に活路を見出し、いわゆる持たざる国は、新たな勢力圏――ヒトラーに言わせれば生存圏、日本軍部に言わせれば生命線――を獲得すべく、割り込んでいった。
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