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オスマン帝国の第一次世界大戦参戦

オスマン帝国の青年トルコ革命で政権を握った青年トルコ党が主導して、ドイツ・オーストリアの同盟側で第一次世界大戦へ参戦した。

 オスマン帝国(トルコ)は1908年の青年トルコ革命で立憲君主政を復活させ、青年トルコ政権による革新政治が展開された。新政権は近代化のために西欧諸国から外人顧問を招聘したが、軍事面ではドイツ軍人のザンデルス将軍を顧問とした。第1次バルカン戦争、第2次バルカン戦争でこのザンデルスの指導を受けた青年トルコの急進派エンヴェル=パシャが活躍し、両者の結びつきは強くなった。政府内には親フランス勢力もあったが、エンヴェル=パシャがドイツとの同盟を推進、秘密条約でドイツ=トルコ同盟条約を成立させた。

オスマン帝国の参戦理由

 オスマン帝国の第一次世界大戦への参戦を主導したのは青年トルコ政権の陸軍大臣エンヴェル=パシャであった。彼は、最大の敵国ロシア帝国を解体してオスマン帝国の自然国境を回復するとして参戦を正当化した。その意図の中にはロシアの支配を受けている中央アジアのトルコ系民族を解放し、サマルカンドを都としたトルコ人の帝国を樹立するというパン=トルコ主義があった。しかも、彼が巧妙であったのはパン=トルコ主義を突出させることなくパン=イスラーム主義に結びつけ、大戦にあたってジハードを宣言し、ロシア領内だけではなくアフガニスタンやインドなどのイスラーム教徒には反英闘争を呼びかけた。<山内昌之『納得しなかった男』1999 岩波書店 p.43~43>

世界大戦とオスマン帝国

 第一次世界大戦が勃発するとオスマン帝国は1914年10月に参戦し、ドイツ軍艦をダーダネスル=ボスフォラス海峡を通過させ、黒海のロシア基地を攻撃した。イギリスはオスマン帝国とドイツが結ぶと、ドイツの中東進出が容易になのでオスマン帝国の参戦を恐れ、15年4月、海峡地帯のガリポリに出兵したが、ドイツ軍とトルコ軍の同盟軍によって上陸を阻止された(トルコ側でこの勝利を指揮したのがムスタファ=ケマルであった)。

大戦中の民族問題

 エンヴェル=パシャのかかげたパン=トルコ主義とパン=イスラーム主義は矛盾せざるを得なかった。パン=トルコ主義の立場からはオスマン帝国領内のアラブ人、ギリシア人、アルメニア人、ユダヤ教徒などの自治独立の要求を抑えなければならなくなる。事実、大戦中にはオスマン軍によってアルメニア人に対する大量虐殺、ギリシア人に対する弾圧が行われた。またイギリスはオスマン帝国の背後を攪乱するためにこの民族対立を利用しようとして、アラビアの反オスマン帝国勢力であるハーシム家のフセインと結び(フセイン=マクマホン宣言)、その反乱を支援した。この時アラブ軍を指導したのが「アラビアのロレンス」であった。

大戦の敗北

 オスマン帝国はガリポリの勝利以外は各地で敗北を重ね、1918年9月にはブルガリアが降伏したため首都イスタンブルに連合軍が迫り、中東ではエジプトを拠点としたイギリス軍がパレスティナなどに進出、さらにイギリスのロレンス大佐に指導されたアラブの反乱が拡大してフセインがダマスクスにヒジャーズ王国を樹立するなど、危機が迫った。10月、スルタンのメフメト6世は秘密裏に交渉して戦後の地位の保障をうけて連合軍に降伏、裏切られたエンヴェル=パシャら、青年トルコの指導者は国外に逃亡した。中東で戦っていたムスタファ=ケマルは、いったんイスタンブルに戻った後、連合国への降伏を拒否して反乱軍を組織した。 → オスマン帝国の滅亡

オスマン帝国の滅亡

 スルタンのメフメト6世の政府は連合国との間でセーヴル条約を締結しその領土の大半を失うこととなった。20年には連合国はオスマン帝国領の西アジア諸地域の分割を行った。一方、1919年にはイギリスの支援を受けたギリシアがイズミル地方に侵攻してギリシア=トルコ戦争が勃発した。ここで救国の英雄としてムスタファ=ケマルが登場し、アンカラに大国民会議を招集し、トルコ国民軍を組織してギリシア軍との戦いを逆転させて勝利に導き、国民会議は満場一致で帝政廃止を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国は滅亡した。1923年7月、ローザンヌ条約が締結され、アナトリアの領土と独立を回復し、トルコ共和国が成立する。第一次世界大戦への参戦はオスマン帝国の消滅を決定づけたと言える。  → トルコ革命 
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ノートの参照
第15章1節 ア.第一次世界大戦の勃発