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ムスリム同胞団

1929年、エジプトで結成されたイスラーム原理主義者の政治組織。アラブ各国にも組織を拡大し、その中から過激な集団も排出したが、主流派は穏健な社会改良を主張している。

イスラーム原理主義

 ムスリム同胞団は1929年にエジプト王国のイスマイリーヤで、ハッサン=アルバンナーが結成した、ムスリム(イスラーム教信者)青年の啓発をめざす社会団体として始まった。その後、シャリーア(イスラーム法)の実施と、イスラーム教にもとずく宗教国家「イスラーム国家」の樹立をめざす政治組織に成長していった。その組織は、エジプトで最大の動員力を有し、さらにアラブ諸国にも広がっていった。このイスラーム同胞団が、20世紀から21世紀にかけて、様々なテロ活動を展開して世界を大きく揺り動かしたイスラーム原理主義の源流となった動きであった。

現代エジプトの政治勢力

 1930年代のエジプト王国ではワフド党政権による立憲君主政が行われていたが、イギリスの帝国主義支配が続き、民衆の不満は依然として強く、それらはムスリム同胞団・青年エジプト・共産主義運動の三つの勢力を受け皿としていた。  なかでもムスリム同胞団は西欧文明の浸透を拒否し、イスラーム法に基づくイスラーム社会の回復を掲げて組織されたが、30年代後半から民衆の幅広い支持を背景に、政治活動にも進出し、秘密の軍事組織をも持つようになった。
 第二次世界大戦後、イスラエル建国に反発したアラブ諸国が出兵し、1948年に第1次中東戦争が起きると、ムスリム同胞団は義勇兵として参加し、敗北後は過激化して外国人襲撃などを展開した。 1952年7月、クーデターを実行してファルーク国王を追放してエジプト革命を成功させ、54年に権力を握ったナセルは、反英・反米の立場に立ち社会主義圏に接近し、国内では過激な宗教政治を主張するムスリム同胞団を厳しく弾圧した。

ナセルによるムスリム同胞団弾圧

 1949年、ムスリム同胞団の初代最高指導者(総ガイド)ハッサン=アルバンナーが秘密警察に暗殺されたあと、第二代最高指導者となったサイイド=クトゥブは、アメリカ留学経験もある知識人であった。彼はアメリカ社会のムスリムに対する偏見や道徳的頽廃を目の当たりにして強い反米感情を持つようになり、帰国後宗教指導者になると、エジプトはムハンマド出現前の偶像崇拝をしていた時代であるジャーヒリーヤ(無明時代)に逆戻りしていると批判し、預言者ムハンマドに倣いジャーヒリーヤ社会を打倒しなければならないと主張した。その主張は直接的にナセル体制に向けられ、1954年10月にはムスリム同胞団員によるナセル暗殺未遂事件が起きるなどしたため、ナセルは同胞団大弾圧に踏み切り、クトゥブも逮捕され、1966年8月29日に獄中で処刑された。クトゥブの思想はその過激さゆえにムスリム同胞団からも絶縁されたが、その思想はエジプトだけでなくイスラーム教徒に強いインスピレーションを与え、過激原理主義の台頭を促した。<藤原和彦『イスラム過激原理主義 なぜテロに走るのか』2001 中公新書 p.52-54,57>

サダト暗殺

 1970年、ナセルが死去し、代わったサダト大統領は、ナセル色を一掃し、左派勢力を抑えるため、一転してムスリム同胞団を容認した。しかし、第4次中東戦争後のサダトがイスラエルとの和平政策に転じると、ムスリム同胞団の一派の過激派である大統領の親衛隊兵士によってサダトは暗殺されてしまった。
 1988年頃にイスラエルに占領されたパレスチナでインティファーダといわれる民衆蜂起が起きると、ムスリム同胞団の中の急進派は、「イスラーム抵抗運動」(略称がハマス)を結成し、パレスティナ全土の解放によるイスラーム国家の建設を掲げ、イスラエルとの全面対決を主張するようになった。それに対してムスリム同胞団主流派は、教育や医療の改善を運動の主眼に置く穏健な社会改良をめざすようになった。
ルクソール事件 1997年11月、ナイル川上流の古代遺跡ルクソールで、日本人10人を含む外国人観光客58人が襲撃され、殺された「ルクソール事件」が起こった。その犯人は、イスラーム原理主義の過激派「イスラーム集団」6名であったと発表された。この「イスラーム集団」とは、世俗政権のムバラク政権を倒し真のイスラーム社会を建設することを目標にした武装集団で、サイイド=クトゥブの影響を受けて「ムスリム同胞団」の穏健路線を批判し、その穏健な主流派から分かれて直接行動を標榜しているとされた。彼らは外国人観光客を襲撃することで観光収入に依存するムバラク世俗政権を動揺させることを狙った言う。しかし外国人観光客を殺害する行為はアラブ社会全般では受け入れられず、ムスリム同胞団をはじめとする穏健な主流派原理主義組織も一斉に非難声明を出した。
ハマスの台頭 1987~88年にかけて、イスラエル占領下のパレスチナ自治区のガザ地区で、イスラエルの占領に対する自然発生的な民族運動であるインティファーダが起こった。投石などによってイスラエル軍に抵抗するパレスティナ人を指導したのは、ハマス(正式な組織名はイスラーム抵抗運動)という、イスラーム同胞団を母体にした組織であった。彼らは教育や慈善事業を続けながら、PLOとイスラエルによる「二国家共存」をめざす和平交渉に反対し、パレスティナの完全な解放(つまりイスラエルの消滅)とイスラーム教による国造りを目ざして、テロも辞さない直接行動をとるようになっていった。ハマスは次第にパレスティナ人の支持を強め、2000年代にはガザ地区でPLO(その中心はアラファトの率いるファタハ)に代わって政権を握り、イスラエルに対するロケット砲攻撃を開始、イスラエルもそれに報復するという、新たな火種をなっている。

アラブの春

 2011年春、チュニジアから始まってアラブ世界に一気に広がったアラブの春がエジプトに及び、1月25日に大規模な民衆でもが興り、30年にわたって独裁を続けていたムバラク政権が倒された。翌2012年の選挙で、エジプトで初めて軍人以外の文民であるムルシー(ムルスィー)が大統領に選出された。ムルシー大統領は「自由と公正党」を率いていたが、支持母体はムスリム同胞団であり、政治姿勢の基本をイスラーム主義に置いた。
エジプトのムルシー政権 しかし、ムルシー政権に対して、憲法改正がイスラーム回帰色が強いことなどから世俗化を支持している軍(軍を基盤としていたナセル―サダト―ムバラクと続いたエジプト軍事政権はいずれもムスリム同胞団を弾圧していた)が反発を強め、さらにムスリーム穏健派やキリスト教徒、コプト教徒らがムルシー政権批判を強め、2013年7月、軍の介入によって大統領は退任に追いこまれ、この政権は約1年間で終わりを告げた。
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