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冀東防共自治政府

1935年、日本の支那駐屯軍が進めた華北分離工作により、華北に成立した傀儡政権。中国で強い抗日運動が起きた。

 1935年11月、日本軍が中国の河北省東部に設けた傀儡政権。冀は河北省の別称なので、「冀東(きとう)」とは河北省東部を意味する。「防共」は共産党の浸透を防止する意味で、日本軍が進出する口実とされた。
 日本は満州国を成立させた後、1933年5月に満州事変の停戦協定として塘沽停戦協定を結び、満州国に隣接した地域を非武装地帯として勢力下に置いた。さらに、国民政府から分離し直接支配下に置くことを狙い、華北分離工作を進めた。

日本の華北分離工作

 1935年6月、日本軍は華北に侵入して圧力を加え、支那駐屯軍司令官梅津美治郎と中国側の何応欽(かおうきん)との間で、梅津・何応欽協定を結んだ。中国軍は日本の要求を呑んで華北から撤退、すべての抗日運動を禁止することを約束した。さらに同月、内蒙古チャハル省でも同様の「土肥原・秦徳純協定」が成立した。これらによって華北の中国軍を排除した日本軍は、同年11月、非武装地帯に、殷汝耕(いんじょこう。日本留学経験のある政治家)を代表として、冀東防共自治政府を樹立させた。22県人口約600万を統治する「自治政府」であったが、実態は日本軍の傀儡政権であった。後に「冀東自治政府」と改称し、日本軍はさらに華北全域を分離させる工作を進めた。
 これに対して国民政府は日本軍と折衝する機関として「冀察政務委員会」(宋哲元委員長)に華北自治にあたらせることにした。これに対して同年12月9日、北京の学生を中心とした抗議運動(十二・九学生運動)が起こった。 → 西安事件  盧溝橋事件  日中戦争

Episode 日本軍とアヘン政策

 中国の東三省、熱河省一帯にはアヘンの吸飲とその栽培が行われていた。満州国はアヘンに対して厳禁ではなく漸次減少させていくという漸禁政策をとり、事実上吸飲を認め、さらにその生産販売を専売制として国家収入にあてようとした。日本軍が熱河省や内蒙古に支配権を拡大し、冀東防共自治政府を樹立したのもその地域がアヘンの生産地域であり、大きな利益を得られるからであった。この地のアヘンを精製して造ったヘロインなどの麻薬は天津や上海などで広く販売され、犠牲を多く出した。日本支配地におけるこのようなアヘン政策は、大戦後の東京裁判でも国家犯罪の一つとして裁かれることとなる。<江口圭一『日中アヘン戦争』1988 岩波新書 p.44-57>