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盧溝橋事件

1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突。いずれかの発砲から始まった偶発的な衝突であったが、日本軍は全面的な戦闘に突入する口実とし、日中戦争の契機となった。

日中戦争の勃発

 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争の始まりとなった事件。日本軍への発砲をきっかけに交戦状態となったが、誰が発砲したかについては現在も定説はない。日本政府(近衛文麿内閣)および軍中枢は自衛権の発動を口実に陸海軍を増派、事実上の戦争となったが、宣戦布告は行わず、当初は北支事変と称し、戦闘が上海に拡大した後の9月に支那事変と命名した。
なぜ日本軍が北京郊外にいたか なおこの時の日本軍とは、支那駐屯軍といい、義和団事件(北清事変)後の1901年に締結された北京議定書で清が外国軍の北京などへの駐屯を認めたときに設置された軍隊。その後列強はほとんど撤兵したが、日本はこの時の駐屯権を邦人保護を理由に継続して北京及び天津などに支那駐屯軍を置き、演習などをつづけていた。

盧溝橋について

 盧溝橋は北京(当時は北平といった)西南部郊外の永定河に架かる橋で、代の1189年に完成し、元代にマルコ=ポーロがこの橋を渡ったことが『東方見聞録』にも現れる名所である。盧溝橋と蘆溝橋が長い間混用されてきたが、1981年に中国政府が橋のたもとに立つ清の乾隆帝直筆の「盧溝暁月」碑を尊重して、盧溝橋に統一することを決定した。<秦郁彦『盧溝橋事件の研究』1996 東京大学出版会 p.112>

満州事変から日中戦争へ

 日本は、満州事変の後、1932年に満州国を傀儡政権として成立させた。中国国民党政府は当然、日本の侵略行為として国際連盟に提訴、リットン調査団が派遣された。その間も日本は上海事変(第一次)など軍事行動を続けたため国際的非難が強まり、国際連盟で満州国否認決議が可決されると、日本は国際連盟を脱退、国際的孤立の道を歩むこととなった。
 しかし、満州国の統治には困難が伴い、また想定したほどの経済的効果もあがっていなかった。日本国内には満州国の権益は日本の生命線であるとの主張が強まり(「満蒙問題」と言われた)、そのため、現地軍である支那駐屯軍が主導する形で、満州国に隣接する中国本土に勢力を伸ばし、満州国の治安を安定させるとともに、豊富な地下資源などを獲得することを目指すようになった。
 まず1933年1月から3月、隣接する熱河省に軍を進出させ(熱河作戦)、満州国に編入し、さらに山海関をこえて中国本土に侵攻した。中国の南京にあった国民政府蔣介石は、国内での共産党との内戦を重視し、日本軍との妥協を図り、同年5月、塘沽停戦協定の締結に応じた。これによって日本軍は長城線まで後退したが、熱河省を含む満州国を中国が承認するという結果となった。
 日本はさらに華北一帯を実効支配することを策し、華北分離工作を進めることとなる。1935年に梅津・何応欽協定を結んで華北一帯の中国軍を撤退させ、抗日運動は禁止されることになった。内蒙古に関しても同様の土肥原・秦徳純協定が締結された。こうして華北の中国軍を撤退させた上で、同年、冀東防共自治政府を傀儡政権として樹立させ、華北を南京の国民政府から分離させることに成功した。
 しかし、このような露酷な侵略に対して、まず中国共産党が八・一宣言を出して国民党に抗日を呼びかけ、年末には北平での十二・九学生運動をきっかけに全土で抗日運動が活発化した。
 この中国における抗日運動の高揚に対して、危機感を抱いた日本軍部は「暴戻な中国に対して膺懲を加える」(無礼な中国をこらしめる。暴支膺懲と云った。)を掲げて、軍事行動の機会を狙っていた。また国内の多くの世論も満州を守るために、中国との戦争もやむをえないという世論が強まっていた。そのような中で1936年の二・二六事件を契機に軍部が政治中枢を握る態勢が出来上がり、翌年7月7日の盧溝橋事件を迎える。

盧溝橋事件以後の動き

 盧溝橋事件の翌日から日中双方の交渉が行われ、一旦収束したが、日本軍は中国側の抗日の意識が強いとみて北平~天津の「邦人保護」のために内地、朝鮮、満州から計5師団という大量兵力を現地に派遣した。軍内部にもこの際一気に華北を占領しようとする拡大派と、事態の収束を図ろうとする慎重派に分かれていたが、結局拡大派が主流を占め「武力膺懲」を加えることに決した。
 日本側は中国側司令官(宋哲元)らの陳謝などの条件を示したが、蒋介石はそれを拒否、25日に日中両軍が衝突した。さらに上海で海軍将校が殺害されたことをきっかけに、8月13日には上海でも戦闘が始まり(第2次上海事変)、事態は全面的な日中戦争へと突入していった。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗