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張鼓峰事件

1938年7月、満州国の東部、ソ連との国境で発生した日本軍とソ連軍の軍事衝突。日本軍はソ連軍の機械化部隊との戦闘で劣勢になり、8月に停戦、撤退した。

 日中戦争は1937年7月の盧溝橋事件から本格化し、日本軍は同年末に南京を占領、1938年には蔣介石が中華民国政府をすでに重慶に遷都させていたのを追うように、長江中下流の漢口と広州をめざして戦線を拡大しつつあった。それでもこの段階での日本陸軍の最大の仮想敵国はソ連であり、国境を接する満州国北部に対する軍備増強を続けていた。そのような日本軍にとって、ソ連軍の動向と共に実力を知ることは必須だったため、国境警備を強めながらその機会をうかがっていた。ソ連のスターリンは、日中戦争の展開を見て1937年8月に中ソ不可侵条約を締結して共同で日本にあたる態勢を作り、中国への軍事物資の支援を増大させていた。

満州東部国境での日ソの軍事衝突

 1938年7月29日、満州国南東部の突端にあたる豆満江河口で日本軍とソ連軍の衝突が起こった。この地域は満州、朝鮮、ソ連のそれぞれ主張する国境が複雑に入りくみ、それぞれの国境の主張が違っており、日本は張鼓峰と言われた地点は満州国領としていた。この日、ソ連兵が張鼓峰に進出しているという情報が入ったため、日本の参謀本部は「威力偵察」を朝鮮駐屯第十九師団に命じた。翌日から戦闘が本格化したが、ソ連軍の戦車、大砲、飛行機を伴う反撃に遭って苦戦に陥り、師団の22%を損耗する事態となった。このままでは全滅の恐れが出たため、中央は停戦を急ぎ、8月10日にモスクワで停戦協定が結ばれた。
 日本軍はこの限定戦では敗北したが、ソ連にはそれ以上の満州への進出を意図していないという確信を得て、8月22日に中国戦線の中止派遣軍に漢口総攻撃を命じた。それによって武漢三鎮、さらに広東を攻略したが、戦線は伸びきり、それ以上進行することは出来なくなった。

生かされなかった経験

 張鼓峰事件での敗北は、日本軍にとって苦い経験であり、その経験から学ばなければならなかったはずであるが、当時の満州国を守備する関東軍は、そのようには捉えなかった。関東軍の幕僚(参謀)は、張鼓峰の敗北は事に当たった朝鮮駐留の日本軍「朝鮮軍」が消極的であったからであり、自分たちが戦えば勝てた、というきわめて独善的な判断に陥ってしまった。そのため、戦略や戦術の練り直し、装備の充実などの手を打つことなく、翌年のノモンハン事件に突入し、ソ連軍にも大きな犠牲を強いたものの、関東軍は大きな損害を生じ、結果的に同じあやまちを繰り返すこととなった。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗