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ダンバートン=オークス会議

1944年、アメリカ・イギリス・ソ連および中国代表による国際連合憲章の草案作成のための国際会議。

 第二次世界大戦の末期、連合国の戦後処理構想の一環として、1944年8月から10月にかけて、アメリカのワシントン郊外、ダンバートン=オークスで開催された国際会議。首脳会談ではなく、大西洋憲章での英米首脳の合意、モスクワ宣言での三国外相の合意を受けた、国際連合憲章草案作成のための、国際法の専門の法律家による実務者会議である。

拒否権問題で意見割れる

 はじめアメリカ・イギリス・ソ連の三国代表で協議、次いでソ連にかわり中国代表が参加して協議がおこなわれた。大筋について合意したが、安全保障理事会の常任理事国に拒否権を与えるかどうかでは意見が対立した。アメリカ、イギリスは拒否権を否定したが、ソ連は安全保障の実行力を高めるためには全会一致が必要である、つまり拒否権を認めるべきであると主張した。結局合意には至らず、安保理の採決については討議を続けるということにして、最終決定は1945年2月のヤルタ会談での米英ソ首脳会談に持ち越されることになった。

補足 国際連合とアメリカ

 第二次世界大戦に途中から参戦し、太平洋戦線とヨーロッパ戦線で戦ったアメリカは、戦後の国際平和維持に並々ならぬ熱意と使命感を持った。国際連盟に代わる国際機構の設立は現在からみれば当然のことで順調に進んだだろうと思われるかもしれないが、実際にはアメリカはソ連の合意を取り付ける必要と同時に、国内の伝統的な孤立主義(モンロー主義)とも戦い、ウィルソンの失敗を繰り返さない必要があった。F=ローズヴェルトは国際連合のアイデアを出し、その実現に情熱を注いだ、ということになっているが、現実の動きを見ると必ずしもそうではなかった。大西洋憲章でも具体的な国際機関の設立を提唱したものではない。ローズヴェルトの構想は、「四人の警察官」つまり米・英・ソ・中の四大国が世界の安全保障を担うという構想であって、大国主義の色彩が強いものだった。平等な国家が強調して平和を維持するという構想は、むしろ国務長官コーデル=ハルおよび国務次官サムナー=ウェルズを代表とする国務省が推進した。国際連盟がウィルソン大統領が推進し、国務省は消極的だったことと比べて大きな違いであり、アメリカが国際連合の構成員となる上で大きな背景となった。ハルやウェルズはねばり強くソ連やイギリスとも交渉し、国内の反対派を説得し、国際連合憲章の原案を作成し、ダンバートン=オークス会議にかけるところまで漕ぎ着けた。ここでは拒否権問題で米英とソ連の間に対立が生じたが、ヤルタ会談で妥協点を見いだすことに成功し、次のサンフランシスコ会議でもアメリカは積極的な多数派工作を行い、多国間主義の立場にたち、国際連合の創設に成功した。しかし、多国間主義(マルチラテラリズム)は次第に弱まり、戦後の冷戦の中で次第に非多国間主義=単独行動主義(ユニラテラリズム)が台頭、80年代のレーガン政権、90年代・21世紀初頭のブッシュ父子政権が出現した。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 による>
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ノートの参照
第16章1節 ア.戦後の国際政治・経済秩序