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サンフランシスコ会議

第二次世界大戦中の1945年4月、連合国50カ国が参加した国際会議で、6月に国際連合設立を決定した。

 まだ第二次世界大戦が終わっていない1945年4月から6月の2ヶ月間、アメリカのサンフランシスコで連合国50カ国が参加して開催された、国際連合設立に関する国際会議。6月25日に国際連合憲章を採択し、戦後世界の国際協力体制を作り上げる会議となった。
 会期は4月25日から6月26日までの2ヶ月。この会議開催中の5月8日にドイツは降伏し、日本は日中戦争および太平洋戦争の交戦中であった。日本が敗戦を迎えるのは、サンフランシスコ会議で国際連合憲章が採択された後の8月15日(正式な降伏文書調印は9月2日)であった。

国連憲章の採択

 会議はアメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連が招請国となって、50カ国の連合国代表(連合国は51カ国であったがポーランドは代表権をめぐって内部に争いがあったため参加できなかった)が参加して開催された。1944年のダンバートン=オークス会議、45年2月のヤルタ会談で検討された国際連合憲章原案について、テーマごとに12の小委員会に分かれて討議を行った。4大国、とくに米英ソがヤルタ会談でほぼ合意に達していたが、サンフランシスコ会議では初めて国際連合憲章に関して議論に加わった中小国から、様々の意見が出され、次のような点で激論が戦わされた。
  1. 拒否権問題 米英ソはヤルタ会談で5大国に拒否権を認めることで合意したが、オーストラリアやニュージーランドなど中小国が、拒否権が軍事的紛争だけでなく、平和的解決の場合も認められるのは不平等だとして反発した。
  2. 安全保障理事会は強制行動に関して唯一の権限を持つとされた点で、総会にその権限をゆだねるべきだという意見が強かった。最終的には国際の平和と安全の維持については総会は討議と勧告はできるが安保理優位は変更されなかった。
  3. ラテンアメリカ諸国から地域的集団保障機構のもつ自衛権を認めよという声が上がった。その議論の中から個別的自衛権と併せて集団的自衛権を認めることが加えられ、ソ連の意見で、それは安保理の処理がなされるまで、という制限が加えられることとなった。
 以上、いくつかの点で修正が加えられ、最終的に6月26日に全会一致で採択した。参加国は3ヶ月後までに批准を終え、正式に国際連合が成立することとなった。発足は日本降伏後の、10月24日(日本時間で25日)となった。

補足 アメリカ議会の国連憲章承認

(引用)国際連合はアメリカの強い願望と意志によって生まれた。もしその動因を、多国間主義的な秩序への理想と、単独行動主義的な支配への意欲とにあえて二分するなら、大西洋憲章からサンフランシスコ会議集結までの期間は、おおむね前者がまさっていたと言ってよい。・・・国内的には、国際連盟不参加の時ほどに声高な反対は形成されなかった。とはいえ、「アメリカの上に立つ超国家を作るのではないか」という反対論を常に警戒しなければならなかった・・・。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.100-102>
 サンフランシスコ会議の後の7月9日から13日まで上院外交委員会で公聴会が開かれ、アメリカ合衆国の主権が侵されるのではないか、国家の自由のさまたげになるのではないか、再びイギリスの下風にたつか、ソ連に屈服することになるのではないか、などの反対論が出た。それに対してトルーマン大統領ら政府側は、国連加盟によってアメリカの自由が制限されることはない、と説明して乗り切った。7月28日の批准評決は賛成82、反対2で可決された。各国の批准書はアメリカ政府に寄託することになっていたので、アメリカは8月8日(日本時間9日)、自国政府に批准書を寄託する。その日、長崎に原爆が投下された。<最上敏樹・同上>
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第16章1節 ア.戦後の国際政治・経済秩序