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ポツダム会談

第二次世界大戦末期の1945年7月、アメリカ、イギリス、ソ連の三国首脳が日本とドイツの戦後処理で会談し、基本線で合意し、ポツダム宣言とポツダム協定を作成した。

ポツダム会談
アトリー  トルーマン  スターリン
 第二次世界大戦でイタリア・ドイツの降伏の後、連合国の戦後処理構想の最後の会談として、1945年7月17日~8月2日に開催された首脳会談。ポツダムはベルリン近郊のポツダム(プロイセンのフリードリヒ大王の造営した離宮であるサンスーシ宮殿の所在地として有名)なところである。
 参加者は、アメリカのトルーマン大統領(ロースヴェルトは4月に病死))・イギリスのチャーチル・ソ連のスターリン書記長の三者であったが、期間中にイギリスの選挙で保守党が敗れたためチャーチルは首相を辞任、代わって首相となった労働党党首アトリーが途中から参加した。
 議題は、ドイツの戦後処理、日本についての無条件降伏勧告と戦後処理方針が話し合われた。交戦中の日本に対してはこの会談の会期中の7月26日に、無条件降伏の勧告であるポツダム宣言が出された。ポツダム宣言にはソ連は日ソ中立条約があって日本に宣戦していなかったので参加せず、中国の蔣介石の同意を得て、その名前を加えて発表した。ドイツの戦後処理については、最終的に米英ソ三国首脳は8月2日にポツダム協定を発表し、一応の合意を見たが、国境問題など大きな問題の解決を先延ばしにし、ドイツ分断という禍根を残すこととなった。 → ドイツの分断

Episode 「赤ん坊は申し分なく生まれました」

 1945年7月17日、ポツダム会談に臨んでいたアメリカのトルーマンとイギリスのチャーチル(まだ首相を交替していなかった)の下に、メモが届けられた。それには〝Babies satificatority born〟 と書かれていた。それはアメリカが原子爆弾の実験に成功したという意味であった。チャーチルとトルーマンはこれでソ連の力を借りなくとも日本を降伏させることが出来ると確信したが、偉大な同盟者スターリンにも実験成功を伝えなければならないと判断した。7月24日の会談の後の雑談で、トルーマンはスターリンに「新型爆弾」が完成したと伝えた。スターリンは特に驚いた様子もなく陽気な態度を変えず何も質問しなかったという。<チャーチル『第二次世界大戦』4 河出文庫 p.431-440>
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ノートの参照
第15章5節 エ.ファシズム諸国の敗北
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チャーチル/佐藤亮一訳
『第二次世界大戦』4
河出文庫