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パレスチナ

西アジアの東地中海海岸一帯を指す地域名。その中心部をイスラエルが占拠し、多数のパレスチナ難民が発生、現代の最も深刻な対立の場となっている。

 パレスチナは地中海の東岸一帯で、広くはレヴァントとも言われる、シリアの南部一帯をいう。現在はイスラエルの領土となっており、日本の秋田・山形を合わせた面積よりやや狭い。海岸部と山地、ヨルダン川で結ばれるガリラヤ湖から死海(海抜-400mにある塩湖)にかけての地溝帯から成る変化に富んだ地形であるが、オリエントの肥沃な三日月地帯の一部を構成しており、特に北部は豊かな土地が広がっており、旧約聖書で「乳と蜜の流れる地」(蜜は蜂蜜ではなく果汁)といわれている。またシリアとエジプトの中間に位置し交易の要衝でもあった。パレスチナの中心地イェルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という三大宗教の聖地であり、中東の重要な歴史的都市である。
 → (1)パレスチナの文明と国家  (2)ローマのパレスチナ支配  (3)パレスチナのアラブ化  (4)パレスチナの近代  (5)パレスチナ 問題の始まり  (6)アラブ・イスラエルの対立

(1)パレスチナの文明と国家

カナーン人とペリシテ人

 この地には前3000年頃にさかのぼる青銅器文化段階の都市遺跡が多数発掘されている。この地は古くはカナーンといわれ、カナーン人が交易に従事し、都市国家を形成していた。前1500年頃にはエジプト新王国のトトメス3世が進出し、以後はエジプトの支配下に入った。そのころ、小アジアからヒッタイトが進出し、この地は両勢力の抗争の地となったた。紀元前12世紀頃に東地中海に海の民が進出し、ヒッタイトが滅び、エジプト新王国が後退したことによって情勢は一変し、海の民の一派であるペリシテ人がこの地に鉄器を伝え、活動するようになった。ペリシテ人の名からパレスチナという地名が起こった。ペリシテ人はヘブライ人(ユダヤ人)と対立しながら、現在のガザ地区のアラブ人となっていった。

ヘブライ人の国家建設

 前1500年頃から西北メソポタミアの地で遊牧生活を送っていたセム語系のヘブライ人が、カナーンの地に移動し、さらにその一部はエジプト新王国のエジプトに移住して、奴隷の境遇に陥ったらしい。前13世紀の中ごろ、彼らは「出エジプト」を行い、パレスチナの地に戻っていくつかの部族に分かれて定住するようになった。長期にわたる移住によってカナーン人と同化したと考えられ、またペリシテ人との抗争の過程で統一国家建設が進み、ヘブライ王国を建設し、紀元前1003年、ダヴィデ王の時代に周囲を平定し、都イェルサレムを建設した。次のソロモン王の時に大いに繁栄したが、その死後ヘブライ王国は南北に分裂して衰え、北のイスラエル王国は前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は前587年に新バビロニアによって滅ぼされ、多くの住民がバビロンに連行されるバビロン捕囚の苦難を体験した。このころからヘブライ人はユダヤ人と言われるようになった。

ペルシア帝国とヘレニズム時代

 アケメネス朝ペルシア帝国を建国したキュロス2世によってバビロン捕囚から解放されたユダヤ人はイェルサレムに戻って神殿を建設したが、ペルシアの支配下に入り、さらにアレクサンドロスの大帝国が成立するとその支配を受けることとなった。ヘレニズム時代はエジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝がこの地の支配をめぐって争いが続いた。

マカベア戦争とハスモン朝

 パレスチナのユダヤ人は、前2世紀の中ごろセレウコス朝シリアからの独立をめざしてマカベア戦争を戦い、ハスモン朝のもとで独立を勝ち取った。しかしその後は内紛が続き、ローマの介入を受けるようになった。

(2)ローマのパレスチナ支配

ローマのパレスチナ征服

 前63年、ローマの将軍ポンペイウスに征服され、ハスモン朝は存続したものの、実質的にはローマの支配を受けることとなった。その後、前40年にローマ元老院からユダヤ王の地位を認められたヘロデがオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)と結び、その権威のもとで統治を行い、イェルサレム神殿を再建した。ローマはシリア総督を通じてユダヤ人に課税した。

第二神殿体制

 ローマの支配下にあったユダヤ人は、ヘロデ王家のもとでイェルサレム神殿でのヤハウェ神への信仰は認められていた。この神殿は前538年にユダヤ人がバビロン捕囚から戻ってから再建された第二神殿なので、この時のユダヤ教のあり方を第二神殿体制という。その体制は、いくつかの大祭司を指導者とし、祭司長たち(貴族祭司)・長老たち(一般貴族=大土地所有者)、律法学者たち(多くがパリサイ派)から構成される最高法院(議員70人)が権威を有する体制で、大祭司や祭司長はいくつかの有力家系のものが独占していた。また神殿はユダヤ人から神殿税の他、すべての生産物に十分の一税を課し、お布施や賽銭のたぐいを含めて大きな利潤を上げていた。<佐藤研『聖書時代史・新訳編』2003 岩波現代新書 p.31-32>

イエスの登場

 ヘロデ王は聖書に拠れば、イエスが生まれたとき、「ユダヤの王となる子が生まれた」と聞き、ベツレヘムの2歳以下の男子を皆殺しにしたという(イエスの両親のヨセフとマリアは天使のお告げによって難を逃れた)。前4年のヘロデ王の死後、内紛がおき、ローマが直接介入することとなり、紀元6年にはローマの属州として支配されることになった。ローマ総督としてこの地を支配したのがポンティオ=ピラトで、彼がイエスを処刑した。

ローマの属州化

 ヘロデ王が死ぬとパレスチナは紀元6年からローマ帝国属州となった。ユダヤ人は、1世紀後半から2世紀にかけて激しい反ローマ闘争(ユダヤ戦争)を起こした。しかし、第1次ユダヤ戦争(66~70年)はローマのウェスパシアヌスによって鎮圧され、第2次ユダヤ戦争(131年)はローマ皇帝ハドリアヌスによって鎮圧された。これによってユダヤ人は地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなった。その後この地は長くローマ帝国、さらに東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属することとなる。

(3)パレスチナのアラブ化

アラブ化

 7世紀にイスラーム教勢力が勃興、正統カリフ時代の638年、イェルサレムはイスラーム教勢力によって征服された。これによってパレスチナにも急速にイスラーム化した。イスラーム教はアラビア語で書かれたコーランを聖典とし、アラビア語で教えを説いたので、この地の住民もアラビア語を話す人々、つまりアラブ人と同化していった。  だだし、ユダヤ教徒やキリスト教徒はいなくなったわけではなく、人頭税を払うことによってその宗教を守ることが許され、イェルサレムは依然としてユダヤ教・キリスト教・イスラーム教にとっての聖地として存続し,彼らは混在して生活していた。また、ヨーロッパのキリスト教徒もイェルサレムに巡礼に来ることもあった。その後、10世紀には、パレスティナには北アフリカに起こり、エジプトを征服したイスラーム教国のファーティマ朝の勢力が進出した。

十字軍時代

 11世紀には中央アジアから移動したトルコ系のセルジューク朝が小アジアとパレスチナに侵入すると、コンスタンティノープルのビザンツ帝国は強く圧迫されることになり、西ヨーロッパのキリスト教世界に救援を要請した。当時、人口の増加期にあった西ヨーロッパのキリスト教世界でも、キリスト教の聖地イェルサレムがセルジューク朝に占領されたことから、聖地回復を口実として十字軍運動を開始した。1099年には、十字軍はキリスト教国イェルサレム王国を建国した。しかし、1187年アイユーブ朝(エジプト)のサラーフ=アッディーンによってイェルサレムを奪回されてからは次第に衰え、1291年、最後の拠点アッコンが陥落したことによって、パレスチナのキリスト教国は消滅した。

オスマン帝国の支配

 その後は、13世紀から同じくエジプトを拠点としたマムルーク朝の支配を受けた。1517年、マムルーク朝がオスマン帝国によって滅ぼされてからは、オスマン帝国がこの地の支配を続けた。十字軍時代には、パレスチナの地中海東岸での東方貿易が行われていたが、オスマン帝国はエジプトから北アフリカに進出し、東地中海貿易を独占したため、ヨーロッパ承認の東西交易ルートは衰退した。

(4)パレスチナの近代

シオニズム

 近代に入り、オスマン帝国領へのイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど列強の進出が強まり、さらに帝国主義段階には、オスマン領の分割競争が激化した。そのような中、ヨーロッパではナショナリズムが強まって各国内のユダヤ人に対する排除、差別などの反ユダヤ主義の風潮が高まった。フランスのドレフュス事件などがその例である。それに対してヨーロッパのユダヤ人のなかにシオニズムという、パレスチナへの帰還とユダヤ国家建設を目指す運動が勃興、この地を巡って民族抗争と帝国主義列強の対立が絡んで複雑な情況が発生した。

イギリスのパレスチナ政策の矛盾

 第一次世界大戦では、オスマン帝国はドイツなどの同盟国に加わったので、イギリスとの間で戦争状態に入った。イギリスは、エジプトのカイロを拠点として、盛んにオスマン帝国領のパレスチナに軍事攻勢をかけ、さらにアラビア半島のアラブ勢力を反オスマン帝国の蜂起を促すなどの工作を行った。また、イギリスは、戦争を遂行する上でユダヤ資本の援助を必要としてバルフォア宣言を発してユダヤ人のシオニズムによる国家(ホームランド)の建設を約束した。その一方で、アラブ人に対してもフセイン=マクマホン協定を出して大戦後の独立を約束した。
 イギリスのパレスティナ政策は矛盾するものであったため、後にユダヤ人・アラブ人の双方が主権を主張することとなり、このイギリスの「二枚舌外交」が現代に続く「パレスチナ問題」の原因となった。さらにイギリスは、実際にはそのいずれにもただちに独立を認めることはなく、これも大戦中にフランスと密約したサイクス=ピコ協定によって西アジアを分割する意図を持っていた。

(5)パレスチナ 問題の始まり

イギリスの委任統治

 第一次世界大戦後のセーヴル条約によって、イギリスとフランスはオスマン帝国領のアラブ地域を分割し、委任統治とすることにした。パレスチナは1922年からイギリスの委任統治が始まり、ユダヤ人は約束に基づいてパレスティナの地に移住してきた。バルフォア宣言でユダヤ人に対する大戦後のパレスチナにおけるの「ホームランド」の建設を約束したが、それは必ずしも国家を意味するものではなく、また移住に際してはパレスチナ人(アラブ居住者)の権利を侵害しないことという条件が付けられていた。

ユダヤ人の入植

 当初のユダヤ人入植者はロシアとポーランドからが多く、すでに居住していたアラブ人(パレスチナ人)と共存していたが、ユダヤ人が増加し、貧しいアラブ農民が土地をユダヤ人に売却するケースも増え、次第に対立感情が醸成されていった。ユダヤ人入植者はキブツという集団農場を建設し、ハガナという軍事組織を持ってパレスチナ人との衝突に備えるようになり、両者の間には武力衝突も始まった。
 その頃中東で相次いで石油の油田が発見され、イギリスは中東への関心を強め、アラブ人を懐柔するため、ユダヤ人の移住を制限し、パレスチナ人国家の建設を容認する提案をした(1937年のピール委員会分割案、39年のマクドナルド白書)が、ユダヤ人、パレスチナ人双方に拒絶され、その双方からのイギリス統治への反発からしばしば暴動が起こった。

パレスチナ人の抵抗の開始

 イギリスの委任統治下でユダヤ人の入植が急増したことに対し、1920~30年代にパレスチナのアラブ人農民や労働者による大規模な抵抗運動が開始された。その指導者の一人シェイフ=カッサームは、ユダヤ人入植地とイギリス軍へのジハード(聖戦)を呼びかけ、1935年4月にイギリス軍と戦い、投降を拒否して戦死した。その武闘路線はカッサーム同胞団などの青年グループに引き継がれ、翌36年からの「パレスチナ蜂起」となった。彼はパレスチナ革命に殉じた最初のフェダィーン(自己犠牲者)として後世に名を残し、1987年にガザ地区で勃発したインティファーダ(第1次)を指導したハマスの軍事部門はイッザッディン・カッサーム隊と名づけられている。<森戸幸次『中東和平構想の現実―パレスチナに「二国家共存」は可能か』2011 平凡社新書 p.42-44>
 アラブ人の実力による抵抗にもかかわらずユダヤ人の入植はさらに増加した。背景には30年代のドイツのナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策から逃れてきた人々が多かったことがある。またパレスチナのアラブ農民の中にもユダヤ人に土地を売却するものも多く、その入植地は急速に増えていった。シオニストの攻勢に対するパレスチナの抵抗運動も組織的になっていったが、イギリスなど国際世論にはパレスチナを分割して両方の国家を建設する構想が浮上してきた。

イスラエルの建国

 第二次世界大戦後、ヨーロッパにおけるナチス=ドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が明らかにされると、ユダヤ人への同情が集まり、パレスチナへの帰還と国家建設は国際的な支援を受けるようになった。しかしイギリス自身は、委任統治に対するユダヤ人、パレスチナ人双方からの不満に対処することにしだいに疲弊し、ついにアトリー内閣が委任統治期間終了に伴い撤兵し、戦後の新たな国際紛争解決機関である国際連合にその解決を丸投げした。

第1次中東戦争勃発

 アメリカの主導により、国際連合でパレスチナ分割案が成立、パレスチナの地をユダヤ人居住区とパレスチナ人居住区に分割する案が双方に提示された。ユダヤ人側はそれを受諾しイスラエル建国を進めたが、パレスチナ人及び彼らを支援するアラブ連盟はそれを認めず、結局両者の間で1948年、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)が起こった。軍事力にまさるイスラエルが勝利を占めてアラブ人居住区を占領したため、多数のパレスチナ難民が発生し、現在に続く世界的問題となっている。

(6)パレスチナでのアラブ・イスラエルの対立

パレスチナをめぐるエジプトを中心としたアラブとイスラエルの対立は、第2次中東戦争から第3次中東戦争へと続いていった。

 1948年のパレスチナ戦争は全面的に勝利したイスラエルは、パレスチナに新たなユダヤ人国家を建設した。近代的な武器で武装したイスラエルに対して、アラブ諸国は政治体制でも、軍備の面でもその遅れが明確となり、改革の必要性に迫られた。その具体的な動きがエジプト革命であり、その中からナセルが新たなアラブ民族の指導者として登場してきた。

第2次中東戦争

 民族主義を掲げたエジプトのナセルは、イスラエルに対抗する国力の充実を図るため、ナイル川のダム建設などを目ざしたが、その自立志向認めないイギリスに対して、スエズ運河の国有化に踏み切った。それを機に1956年、第2次中東戦争(スエズ戦争)が勃発した。

パレスチナ解放機構の発足

 この後、国連軍がガザ地区とシナイ半島南端のシャルム=エル=シェイク(アカバ湾入り口)に駐屯して監視し、平和の維持をはかろうとした。しかし1963年、イスラエルがヨルダン川の水を一方的に分流してイスラエル南部のネゲブ砂漠に導水管を引く計画を実行に移すと、翌64年エジプトのナセル大統領はカイロにアラブ首脳国会議(13ヵ国が参加)を召集、ヨルダン川の分流に対抗してアラブ側にも導水路を建設すること、パレスチナ解放機構を組織することを決定した。

パレスチナ=ゲリラの登場

 それに前後してパレスチナ人によるゲリラ組織であるアル=ファタハがアラファトなどのよって組織され、活動が始まった。イスラエルはパレスチナ=ゲリラに武器を提供しているとしてシリアを非難、シリアも反撃して衝突が繰り返された。1967年、ナセルは国連軍の撤退を要求、アカバ湾を閉鎖してイスラエル船の航行を禁止、戦時態勢を整えた。イスラエル側も軍備を増強し、一触即発の状態となり、第3次中東戦争が勃発した。
 これ以降のパレスチナについては、パレスチナ問題を参照して下さい。
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書籍案内

高橋和夫
『アラブとイスラエル
―パレスチナ問題の構図』
1992 講談社現代新書

1990年代初頭までなので情報としては古いが、戦後の中東問題を理解するには図版も豊富で有意義な一冊。


森戸幸次
『中東和平構想の現実
―パレスチナに「二国家共存」は可能か』
2011 平凡社新書

時事通信特派員として長く中東に滞在した筆者が、なぜ中東和平が進展しないかについて、パレスチナ人に取材した注目すべき書物。


臼杵陽
『世界史の中のパレスチナ問題』
2013 講談社現代新書

古代から現代までをカバーしてパレスチナ問題の歴史的経緯を詳細に解説。新書版にしては大部だが最新情報まで含んでいて便利。