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インドを立ち去れ運動

第二次大戦中の1942年からガンディーが指導したインドの反英闘争。

 1942年8月、インド国民会議派のガンディーネルーらが開始した、インドの反英闘争。「クィット・インディア」「インドを出て行け」ともいう。
 1939年、第二次世界大戦が始まり、イギリスはドイツに宣戦布告すると、植民地インドに対して自動的に戦争状態にあると宣言した。特に兵士の供給源としてイギリスにはインドが欠かせなかったからである。それに対してガンディーらインド国民会議派は、イギリスがインドにはからず戦争に組み入れたことに反発、ドイツのファシズムと戦う必要は認めたが、そのためには直ちにインドの独立を認めるべきであると主張し、独立が認められなければ戦争には協力できないという姿勢をとった。しかしイギリスのチャーチル内閣は、大西洋戦争開戦前の1941年8月にチャーチル首相がローズヴェルト大統領と合意した大西洋憲章において「すべての人民が、彼らがそのもとで生活する政体を選択する権利を尊重する。両国は、主権および自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」と述べていたが、インドには適用されないと表明し、インドに独立の約束を与えることを拒んだ。

日本軍の侵攻とインド独立の国際問題化

 1941年12月に太平洋戦争が始まり、翌年2月には日本軍がイギリスの拠点シンガポールを攻略し、さらに5月にはビルマを占領、インドに迫ってきた。イギリスがシンガポールとマレー半島で敗れ、撤退したことはインド民衆に大きな衝撃を与え、イギリスは果たしてインドを守る気があるのかという疑いが生じた。またビルマが日本軍に占領されたことによって、援蒋ルートが途絶え、中国支援はインドルートに依存しなければならなくなったためアメリカのF=ローズヴェルト大統領と中国の蔣介石はイギリスのチャーチル首相に対しインドに全面的に戦争に協力させるため、その独立を認めよと強く迫った。このようにインド土クリいつ問題は国際問題化した。チャーチル内閣は国際的圧力と挙国一致内閣を構成する労働党への配慮から、ようやく特使クリップスを派遣して独立問題を協議することとした。

イギリスの特使クリップス

 クリップス提案は、戦後に連邦国家「インド連合」に対しカナダやオーストラリア並みのイギリス連邦内の自治国となることを認めるというものであったが、独立に戦争協力の条件が付けられ、藩王国が連合に加わりたくなければ独自にイギリスと条約を結ぶことができるなど、不十分なものであったので、国民会議派その他の諸政党はいずれもそれを拒否した。全インド=イスラム連盟は、分離独立が明記されていないという理由で拒否した。その結果、反英闘争でのガンディーの指導力が再び強まったところで彼が提案したのが、「インドから立ち去れ(クィット=インディア)」という最も強硬な要求であった。

運動の開始と弾圧

 このガンディーの運動の中でも最も過激な主張は、積極的行動を求める国民の声と同情的な国際世論を考えて打ち出したもので、42年8月8日「行動か死か」と演説して、「インドを立ち去れ」運動を宣言、全面的なイギリスへの非協力を訴えた。イギリス当局は翌日朝、ただちにガンディー、ネルー、アーザードなど指導部を反戦活動を扇動したとして大量に逮捕した。それをきっかけにインド全土でガンディーらの逮捕に抗議して約490人の死者、6万人以上の逮捕者が出る反戦暴動が起こった。運動はその後、指導部のないまま44年まで続けられた。一方でムスリム連盟や共産党はこの運動をファシズムに手を貸すものとして非難し、反英闘争には加わらなかった。

運動の終結

 1944年2月から日本軍のインド侵攻作戦であるインパール作戦が始まったが、日本軍はイギリス軍に敗れ、多くの犠牲を出して撤退した。日本軍の敗退とともにガンディーは「インドを立ち去れ」運動の終結宣言を行った。「インドを立ち去れ」運動はインド独立運動の最後の高揚となったが、このときはムスリム勢力は参加せず、むしろイギリスの対独、対日戦争に協力した。一方、ガンディーの非暴力主義を批判して国民会議から離れた左派指導者チャンドラ=ボースは日本軍に協力してイギリスからの独立を実力で勝ち取ろうと考え、「インド国民軍」を編成し、日本軍のインパール作戦に参加した。しかし、日本軍が敗れたため、ボースはインド脱出を図り、途中台湾で事故死した。インド国民軍は、戦後反乱軍として裁判にかけられたが、独立のために戦ったとして彼らを支援する暴動が各地で起こった。このようにインドは騒乱の中で第2次世界大戦の終結を向かえた。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.186-192> → インドの分離独立

ガンディーの意図

 日本軍の侵攻が迫る中、ガンディーは何故イギリスの撤退を要求し、一見日本軍に協力するような運動を意図したのだろうか。このような疑問について、それまで明らかでなかった第2次大戦期のインドの反英闘争の経過を詳細に調べ、ガンディーの意図を明らかにしようとしたのが長崎暢子『インド独立』1989 朝日新聞社刊である。以下にガンディーの「インドを立ち去れ」運動についての記述を要約する。
 第2次世界大戦が勃発、さらに日本軍がシンガポールを陥落したことは、ガンディーにイギリスがインドを守れるだろうかという疑問を強くさせた。アメリカや中国がインドの独立を強く求めるという国際的な圧力にもかかわらず、チャーチルは特使クリップスを派遣したが依然として自治を認めるとしても戦後のことであり、しかもムスリムや藩王国とは別個に交渉するというコミュナル対立を利用した分割支配を続けようとしていた。そのような中でガンディーは、今こそイギリスに全面的に撤退すべきであると考えた。
(引用)ガンディーは敗走するイギリス軍に対して反英大衆運動を行い、勝利者としてやって来る日本軍とインド国民軍には反英、親日的、あるいは中立的インドを見せて、戦場化を避け、インド人の生命安全を保障したうえで独立インドが日本と講和を結ぶことを想定した。これがガンディーのクウィット・インディアの構想だった。<長崎暢子『インド独立 逆光のチャンドラ・ボース』1989 朝日新聞社 p.251>  しかし、日本政府及び日本軍はその構想に対応することはなかった。ガンディーとの接点はなく、むしろ会議派を反日的と捉えていた。(大東亜共栄圏の構想にも当初はインドは含まれていなかった。)ガンディーはチャンドラ=ボースとは対立していたが、当時ボースがベルリンからインドに向けて反英闘争を呼びかけていたこと、さらにインド国民軍が日本軍に協力してインドに迫る事態をみて、日本の勝利の可能性を信じたようである。一方、このガンディーの構想に対して、会議派主流のネルーらは、あくまでファシズムとの闘いを優先し、イギリスを支援すべきであると主張し、反対した。このように当初は「インドを立ち去れ」運動は反対も多く、会議派の方針とはならなかったが、それが一転して1942年8月に全面的な会議派の方針となったのは何故か。そこには日本軍のインド侵攻が停滞したこと、さらにミッドウェー海戦を期に日本軍の後退が始まったことが影響していると考えられる。そのような状況の変化を見て、ガンディーは一つの譲歩をした。それはそれまではイギリス軍の駐屯を認めなかったが、戦争継続中に限りイギリス軍が駐屯することを認めたのである。そのような妥協のうえでネルーなど会議派主流も「インドを立ち去れ」運動を受け入れた。主流派としても、インド民衆の中に渦巻く反英感情の盛り上がりを抑えることはできなかった。こうして42年8月8日の運動開始を迎えた。<長崎暢子『インド独立 逆光のチャンドラ・ボース』1989 朝日新聞社>
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ノートの参照
第16章1節 エ.南アジア・西アジア・アラブ世界の自立への模索
書籍案内
インド独立史 表紙
森本達雄
『インド独立史』
1978 中公新書
表紙
長崎暢子
『インド独立―逆光の中のチャンドラ・ボース』
1989 岩波書店