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全インド=ムスリム連盟

1906年、イギリスの働きかけで組織されたインドのイスラーム教徒政治団体。

1906年イギリスのインド総督ミントーが、インドのイスラーム教徒(ムスリム)に働きかけて結成させた政治団体。ヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派とは対決し、イギリス統治に対しては協力する姿勢を明確にした。またイギリスもヒンドゥー勢力を牽制するためにムスリム連盟を支援した。ジンナーなどの指導者は、次第に国民会議派との対立を深め、分離独立を主張するようになった。 → ヒンドゥー・イスラームの対立(コミュナリズム)

成立の事情と綱領

 1905年、イギリスが打ち出したベンガル分割令に対する反対運動でインドが騒然としているとき、アリーガル大学がお膳立てをして、アーガー=ハーンをはじめとするイスラーム教徒の代表がインド総督ミントーと会見し、中央・地方議会に少数派ムスリムのために分離選挙制を採用することを条件に、政府に協力を申し入れた。「分割統治」を行政の信条としていたミントーは、それを快諾(分離選挙制は1906年、モーリー=ミントー改革として実施される)、その後押しで1906年12月に、ヒンドゥー教徒を主体としたインド国民会議派に対抗するムスリムの政治団体としてが誕生した。その綱領には、
  • イギリス政府へのムスリムの忠誠心の鼓舞
  • ムスリムの政治的権利ならびにその他の権利の擁護と穏やかな言葉による請願
  • ムスリムと他宗教教徒の親愛感の助長など
がかかげられた。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.89>

反英運動への転換

 第一次世界大戦が始まると、イギリスがイスラーム教国オスマン帝国と戦うことになったため、当時カリフをイスラーム世界の指導者と仰いでいたインドのムスリムはイギリスに対する不信を強めるようになった。全インド=ムスリム連盟でもジンナーなど新しい指導者層が台頭し、一次はインド国民会議派と提携してイギリスに対して自治を要求するまでになった(1916年ラクナウ協定)。さらに戦後、イギリスなど連合国がオスマン帝国のカリフを退位させようとしたことに対して、1919年にヒラーファト運動(カリフ擁護運動)を開始した。その頃、ヒンドゥー教としてインド国民会議を指導するようになったガンディーは、全面的にその運動の支援を表明し、その第1次非暴力・不服従運動(非協力運動)はイギリスという共通の相手との闘いをヒンドゥー教徒とムスリムが協力して展開することとなった。

国民会議派との対立

 しかしヒラーファト運動がトルコ革命でカリフ制も廃止されたことによって敗北すると、再び両教徒の対立が始まり、村落レベルでの衝突が頻発するようになった。その間、ガンディーは一貫してムスリムとの連携を模索したが、国民会議派の新しい指導者(ネルーなど)は完全独立(プールナ=スワラージ)を主張するようになるとムスリムをその障害と見るようになったので、対立はより深刻化した。イギリスはこの対立を利用して、分割統治の策動を強めた。1930年に始まるガンディーを中心とした第2次非暴力・不服従運動の時期には、英印円卓会議に参加し、イギリスの提唱した分離選挙制度に賛成して、自治の中で一定の力を確保しようとした。さらにイギリスが1935年の新インド統治法を制定し地方政治での自治を認め、それに基づく1937年の選挙が実施されるとムスリム連盟は積極的に参加した。しかし、完全自治などを掲げる国民会議派が圧勝し、各州に国民会議派を与党とする政府が成立すると、イギリス支配に代わる「ヒンドゥー支配体制」の到来と捉えたムスリム連盟は危機感を強めた。

分離独立への道

 ジンナーは次第に「二つの民族=国家(nation)」を明確に主張するようになり、ヒンドゥー教徒(その政治勢力としての国民会議派)に対する闘いを優先するようになった。1940年、ムスリム連盟はラホールの大会でインド西北部及び東部など、イスラーム教徒が多数を占める地域はまとまって独立すべきである、という「パキスタン決議」を行い、インドとの分離独立を明確に主張した。ガンディーの懸命の説得にもかかわらず、ジンナーらムスリム連盟は着々と分離独立の道を歩むようになった。第2次世界大戦が始まると、国民会議派はインドからの独立の好機と捉え、1942年からガンディーらがイギリスに対して「インドを立ち去れ運動」を開始した。それに対してムスリム連盟は激しく反対して戦争協力を主張した。イギリスもそれを受けて大戦後にインドの分離独立は決定的となり、1947年に別個の国家として独立した。 → パキスタン

独立後のムスリム連盟

 独立後はパキスタン=ムスリム連合となり、ジンナーは初代総督(パキスタンはイギリス連邦を構成したので大統領ではなく総督という形をとった)に就任したが翌年病死した。それ以後もムスリム連盟は政権与党として権力を維持したが、ジンナーの死後は明確な指導理念を欠き、インド=パキスタン戦争の中で軍部が台頭、1958年の軍部クーデターによって政党活動を停止した。その後、憲法が制定され、議会政治が復活したのでムスリム連盟も復活、1990年にはパキスタン=ムスリム連盟のシャリーフ政権の下でイスラーム化政策が進められた。