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水素爆弾,水爆

原子爆弾を大きく上回る核兵器。1952年、アメリカが最初に南太平洋のビキニ環礁で実験に成功した。

 1949年のソ連の原爆実験成功を受けて、アメリカ合衆国原子爆弾を上回る破壊力のある核兵器として水素爆弾の開発が始まった。水爆の開発に関しては、原爆の開発を推進したオッペンハイマーを中心とする反対派、あるいは慎重派も多かったが、ソ連と共産主義の脅威に対抗するためという大義名分で、核物理学者のテラーやローレンスなどが推進派となり、1950年1月、トルーマン大統領の声明という形で決定され、莫大な国家予算を計上し、1952年11月に最初の水爆実験を太平洋のエニウェクト環礁で成功した。水素爆弾は原爆が核分裂によるのに対し、核融合を利用するもので原爆の数倍の破壊力を持つ。

米ソの水爆開発競争

 アメリカはアイゼンハウアー大統領の時、1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁で本格的な水爆実験を行った。そのとき日本の漁船第五福竜丸が被爆し、犠牲者が出ている。
 ソ連は1953年8月に水素爆弾の実験に成功した。それに携わったのが「水爆の父」といわれた物理学者サハロフであった。サハロフは後に核兵器反対の立場に転じて平和運動家に転身、1975年のノーベル平和賞を受賞、1980年代にはソ連の反体制知識人として逮捕されることとなる。
 中国は毛沢東の権力の下、1964年に原爆実験を成功させたのち、わずか2年数ヶ月の1967年6月、水爆実験に成功、米ソへの対抗心を顕わにした。

オッペンハイマー事件

 「原爆の父」と言われ、その開発の先頭に立ち、また広島・長崎への使用にも積極的であったとされる「マンハッタン計画」の責任者オッペンハイマーは、水爆の開発では一転して反対を主張した。彼は核開発に反対だったのではないが、ソ連との間で無限の核開発競争が行われていくことを深く懸念し、核開発の国際管理の必要を痛感していたからだった。そのようなオッペンハイマーの姿勢は、当時アメリカで台頭したマッカーシズム(「赤狩り」)の風潮から、ソ連のスパイではないかという疑いをかけられ、1954年にはすべての核開発研究からはずされてしまった。この当時はアメリカでは異常な反共政策がとられていた時期であった。その後、1964年になってオッペンハイマーの名誉は回復し、すぐれた物理学者に与えられるエンリコ=フェルミ賞が授与された。<中沢志保『オッペンハイマー』1995 中公新書 p.174>

NewS オッペンハイマー、68年ぶりに公職追放撤回

 アメリカ合衆国のエネルギー省は2022年12月16日、核兵器を開発するマンハッタン計画を率いて「原爆の父」と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマー博士(1967年死去)を公職から追放することになった1954年の処分を撤回したと発表した。理由について「処分の経過で偏見と不公正差を示す証拠が明らかになった」とした。オッペンハイマー氏は第二次世界大戦中、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所で原爆開発を指揮したが、広島・長崎での原爆被害を知った後に水爆開発に反対。危険人物とみなされるようになり、54年には国家機密へのアクセスを取り消す処分を受けた。同省のグランホルム長官は68年ぶりの処分撤回について、「歴史の記録を正し、オッペンハイマー氏の国防と科学事業への貢献をたたえる必要がある」と述べた。<朝日新聞 2022/12/18 記事>

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中沢志保
『オッペンハイマー』
1995 中公新書