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ソ連の核実験

スターリン独裁体制下のソ連は、1949年8月に原子爆弾の核爆発実験を成功させ、9月に公表、米ソの核兵器開発競争は激化した。

戦前ソ連の原爆開発

 ソ連原爆開発の父とも言われるイーゴリ=クルチャートフ(1903-1960)は1925年にレニングラードのヨッフェ研究所で核物理学の研究を始めた。ヨッフェ研究所はドイツに留学してレントゲンの指導を受けたヨッフェが設立したソ連の物理学研究所で、ネップ(新経済政策)の時期にすぐれた研究者を集め、ドイツ、デンマーク、イギリスなどとも交流を持って物理学を世界水準に引き上げた。しかし、30年代後半からソ連が国際的孤立を深め、特に1939年、独ソ不可侵条約が締結されたことで交流も途絶えてしまった。
 ソ連で独裁体制を続けるスターリン自身は核開発に関する知識は十分でなく、政府が核開発に乗り出した形跡はないが、1942年8月13日、アメリカのF=ローズヴェルト大統領は原爆製造を決定すると、ソ連も原子爆弾の開発を意図し始めた。しかし、クルチャートフらの研究は国際的に孤立したため進まず、また核実験に必要な実験炉の建設などができないため、大きく立ち遅れることとなった。
 アメリカもデンマーク人の研究者ニールス=ボーアの情報によって、ソ連の核物理学者の高い能力を知っていたので、ソ連の核開発に対して警戒して開発を急ぎ、1945年7月17日、ついに最初の原爆実験にニューメキシコ州ロスアラモスで成功した。おりから開催されていたポツダム会談で7月24日にトルーマンはスターリンに「新型爆弾」の実験成功を伝えた。スターリンはそれが原子爆弾であることを知っていた可能性があったが、あえて平然と聞き流したという。その翌月、原爆は広島・長崎に投下され、ソ連も大きな衝撃を受けた。
 アメリカの原爆投下は、戦争を終わらせ、日本の最後の抵抗による多大な損害を防止するためであったとその正当性がかたられるが、すでにドイツは5月に降伏しており、戦争を終わらせるよりもソ連の原爆使用に先立って使用するところにその意味があったと考えられる。

ソ連の原爆実験成功

 ソ連のスターリンは広島への原爆投下から2週間後、日本の降伏から5日後の1945年8月20日に、原爆開発研究を「国家防衛委員会」のもとで特別委員会が指揮する緊急事業に格上げし、クルチャートフにあらゆる手段を尽くして最短スピードで完遂すること、そのためのいかなるコストもはらうと語った。この時を以てソ連の本格的原爆開発は着手され、国家的資金が導入されて原子炉、ウラン235,プルトニウム製造工場などがモスクワ東方のウラル市域に特別な都市を建設して進められた。ウラン鉱山での鉱石採掘には多数の囚人労働者が動員されたことが現在では知られている。<紀平英作『歴史としての核時代』世界史リブレット 1998 山川出版社 p.94->
 一方1946年7月25日、ビキニ環礁で戦後最初のアメリカの原爆実験が行われた。当時米ソは国際連合総会で設立された原子力委員会で、アメリカは国際管理を主張、ソ連は核兵器廃止条約を提唱していたが、米ソとも其の主張とは裏腹に実験を重ねていった。
 ソ連はウラル地方のチェリヤビンスク40と呼ばれた新都市には原爆用のプルトニウム生産工場が完成、アルザマース16の兵器開発施設でプルトニウムを組み立て、1949年8月29日、カザフスタンの草原地帯のセミパラチンスクでの実験に成功した。

冷戦下の核開発競争始まる

 ソ連は核実験成功を公表しなかったが、日本-アラスカ上空をパトロール中の偵察機で知ったアメリカトルーマンは、9月23日、ソ連の核実験の事実を公表、それをうけて同年9月25日、ソ連も核実験成功と核兵器保有を認めた。ソ連の核実験成功はアメリカより4年遅れ、世界二番目となった。ソ連の原爆は長崎型と同じプルトニウム爆弾でTNT火薬にして2万トンに相当するものだった。

水爆と核保有国の増加

 アメリカは予想外に早かったソ連の原爆開発成功に衝撃を受け、トルーマン大統領は直ちに国家安全保障会議(NSC)を開催し対策を検討し、原子爆弾を上回る破壊力を持つ水素爆弾の開発を進める決定をした。
 ソ連は原子爆弾と水素爆弾の開発を一連のものとして捉え、クルチャートフ、ユーリー・ハリトーンなどの開発グループに若き秀才と言われたアンドレイ・サハロフが加わって水爆開発へと移行した。
 続いてイギリスが1952年、フランスが1960年、中国が1964年に原爆実験に成功、それに並行して水爆実験も続き、東西冷戦のもとでの核開発競争が行われた。<中沢志保『オッペンハイマー』1995 中公新書 p.174/岩波小辞典『現代の戦争』p.178-180> → 核兵器開発競争

Episode ソ連核開発のお家の事情

 実は1945年の時点でソ連にはほとんどウランは発見されていなかった。46年のクルチャトフのスターリンへの報告書にも、核開発に必要なウランは10分の1しかないと言っている。ソ連の占領地、ドイツ東部やチェコスロヴァキア、ブルガリアにはウランが産出した。47年にはソ連領内でもウランが発見されるのだが、50年に入ってもソ連の使用するウランの3分の2は東欧産であった。ソ連が、東ドイツなど東欧支配を行ったのはウラン鉱が豊富であったという「軍事経済的要因があった」という見方もある。50年代には北朝鮮からもウランがソ連に運ばれている。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.28-31>

ウラル核爆発事故

 1957年秋、ソ連のウラル地方のチェリャビンスクで、原子炉が爆発し大規模な放射能漏れが発生した。ウラル核惨事と言われているこの事故は、当初、全くの秘密とされ、その規模、原因等は一切明らかにされていなかった。この事故の真相が知られるようになったのは、ソ連から亡命した科学者ジョレス=A=メドベージェフが、イギリスの科学雑誌に論文を発表したからだった。事故後の汚染調査を独自に行った彼は、核兵器製造過程で廃水が地下に漏れ、プルトニウムが地下で濃縮されて何らかの原因で爆発したもの、と原因を推定し、汚染地区の住民は数千人が死亡、また数万人が強制退去させられたことを明らかにした。ソ連当局は必死に否定したが、メドベージェフはその後も著作を発表し、告発を続けた。
 ようやくゴルバチョフ政権下の1989年、グラスノスチ(情報公開)が実現し、1992年にはロシア政府が住民に対して事故があったを認めた。なお、1960年、アメリカが偵察機U2型機をソ連領に侵入させて探ろうとしたのは、このウラル核爆発事故の情報を得て、その確認のためだったのではないかと推測されている。U2型偵察機はソ連軍によって撃墜され、平和共存がご破算となり、キューバ危機にいたる冷戦が再燃した。<広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982 現在は文春文庫。p.137-152 などによる>

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