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ソ連の核実験

スターリン独裁体制下のソ連は、1949年8月に原子爆弾の核爆発実験を成功させ、米ソの核兵器開発競争は激化した。

 第二次世界大戦中、すでにソ連でも原子爆弾の開発が始まっていた。ソ連はベリヤを長官とする秘密警察のスパイ活動によって米英の核開発の状況を正確に把握していた。1943年、スターリングラードの戦況が好転すると、スターリンは核開発にゴーサインを出し、クルチャトフが責任者となって突貫工事で原爆の製造を急いだ。施設や核物質の採鉱には数十万の囚人が動員されたという。
 こうして1949年8月、セミパラチンスクで長崎型と同じプルトニウム爆弾の実験に成功した。ソ連の核実験成功を、日本-アラスカ上空をパトロール中の偵察機で知ったアメリカは、予想外に早かったソ連の原爆開発成功に衝撃を受け、トルーマン大統領は直ちに国家安全保障会議(NSC)を開催し対策を検討し、原子爆弾を上回る破壊力を持つ水素爆弾の開発を進める決定をした。<中沢志保『オッペンハイマー』1995 中公新書 p.174> → 核兵器開発競争

Episode ソ連核開発のお家の事情

 実は1945年の時点でソ連にはほとんどウランは発見されていなかった。46年のクルチャトフのスターリンへの報告書にも、核開発に必要なウランは10分の1しかないと言っている。ソ連のの占領地、ドイツ東部やチェコスロヴァキア、ブルガリアにはウランが産出した。47年にはソ連領内でもウランが発見されるのだが、50年に入ってもソ連の使用するウランの3分の2は東欧産であった。ソ連が、東ドイツなど東欧支配を行ったのはウラン鉱が豊富であったという「軍事経済的要因があった」という見方もある。50年代には北朝鮮からもウランがソ連に運ばれている。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.28-31>

ウラル核爆発事故

 1957年秋、ソ連のウラル地方のチェリャビンスクで、原子炉が爆発し大規模な放射能漏れが発生した。ウラル核惨事と言われているこの事故は、当初、全くの秘密とされ、その規模、原因等は一切明らかにされていなかった。この事故の真相が知られるようになったのは、ソ連から亡命した科学者ジョレス=A=メドベージェフが、イギリスの科学雑誌に論文を発表したからだった。事故後の汚染調査を独自に行った彼は、核兵器製造過程で廃水が地下に漏れ、プルトニウムが地下で濃縮されて何らかの原因で爆発したもの、と原因を推定し、汚染地区の住民は数千人が死亡、また数万人が強制退去させられたことを明らかにした。ソ連当局は必死に否定したが、メドベージェフはその後も著作を発表し、告発を続けた。
 ようやくゴルバチョフ政権下の1989年、グラスノスチ(情報公開)が実現し、1992年にはロシア政府が住民に対して事故があったを認めた。なお、1960年、アメリカが偵察機U2型機をソ連領に侵入させて探ろうとしたのは、このウラル核爆発事故の情報を得て、その確認のためだったのではないかと推測されている。U2型偵察機はソ連軍によって撃墜され、平和共存がご破算となり、キューバ危機にいたる冷戦が再燃した。<広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982 現在は文春文庫。p.137-152 などによる>
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ノートの参照
第16章2節 ア.朝鮮戦争と冷戦体制の成立