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中国の核実験

中ソ対立の深刻化を背景に1964年に中国は核実験を行い、五番目の核保有国となる。

 中ソ対立のきっかけのひとつは核技術の提供問題があった。早くも1954年のソ連のフルシチョフの訪中の時、毛沢東はフルシチョフに対し非公式に核爆弾と潜水艦技術の提供を求めた。しかしフルシチョフはアメリカの西ドイツへの核の提供に口実を与えるとして断った。それでも50年代後半にはソ連は中国に対し、平和目的の核技術と技術者の提供を大規模に行った。
 1956年のフルシチョフのスターリン批判から中ソ間の革命路線の違いが生じ始め、中ソ対立が始まったため、中国は次第に自力更生を目指すようになった。1958年に毛沢東は「大躍進」運動を開始、自前の重工業化を進めたが、同年、台湾海峡の金門・馬祖事件でアメリカ・台湾との関係が悪化すると毛沢東は原爆の使用をソ連に打診した。しかし、ソ連は平和共存路線をとりそれを拒否した。1959年にはソ連は中ソ技術協定破棄を通告、核開発を含む技術者を帰国させた。

米ソ英の部分的核実験停止条約に反発

 そのような中で1960に中国は核兵器の独自開発を決定し、以後莫大な人員を動員して核実験を急いだ。その直後、62年にキューバ危機が起こると、米ソ両国の核戦争の危機が一気に高まり、国際世論も核実験禁止の声が強まった。危機回避後の63年、両国はイギリスを加え最初の核実験制限の取り決めである部分的核実験停止条約に調印した。それに対して中国は反発して開発を進め、着手から予定の8年ではなく、わずか5年後の64年10月16日、大気圏中での核実験に成功した。ちなみにこの日、ソ連ではフルシチョフが解任され、毛沢東は核実験成功はその祝砲だと喜んだ。

Episode 毛沢東の核戦争観

(引用)核戦争についても毛沢東は独自の認識を持っていた。ソ連側史料にでは、1957年11月、地球人口27億人の半分が滅び、帝国主義が一掃されたとき、社会主義だけが生き残る、と毛沢東はモスクワで発言し、平和共存論に立つソ連指導部との隔絶を示した。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.110>
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ノートの参照
第16章3節 ウ.動揺する中国