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ソ連共産党第20回大会

1956年2月に開催されたソ連共産党の定期大会。フルシチョフによるスターリン批判が行われた。

 ソ連において、1956年2月に開催され、フルシチョフ指導部によるスターリン批判が行われた重要な大会。フルシチョフ第一書記はまず公開の大会で一般演説を行い、
・資本主義陣営との戦争はどうしても避けられないものであるという不可避論は誤っていること。
・資本主義体制と社会主義体制をとる国とが平和共存することは可能であること。
・暴力革命だけではなく、議会政治を通した平和な手段による革命も可能になっていること。
の三点をあげた。これは従来のソ連スターリン主義を否定する大きな方針転換を意味していた。続いて非公開会議(秘密会議)を開いて、スターリンによる粛清の実態を始めて明らかにして、その非人道的な独裁政治を非難した。一般にこの部分がスターリン批判演説といわれる。

1956年

 1956年という年は、戦後世界史の中で一つの転機となる年となった。1953年のスターリン死去以来、ソ連に「雪どけ」と言われる変化が始まり、56年2月にフルシチョフによるスターリン批判に至った。それは冷戦の枠の中で米ソの平和共存を実現させたが、同時に東欧に自由化を求める動きを触発した。そしてソ連がポーランドハンガリーの自由化を弾圧し、ポーランド反ソ暴動ハンガリー反ソ暴動となったことは、東西緊張を再び重苦しいものにした。
 冷戦と並ぶ戦後のもう一つの動きである第三世界の自立の動きはエジプト革命となって爆発したが、そのエジプトのナセル大統領が56年にスエズ運河の国有化を宣言したことからスエズ戦争(第2次中東戦争)が勃発した。ここでは植民地支配を維持しようとするイギリス・フランスを米ソが非難し、単純な東西対立という図式が崩れた。このような冷戦構造を揺り動かすような出来事が起きたこの年は1956年の危機とも言われる。
 日本にとって1956(昭和31)年は、戦後10年が経過し、朝鮮戦争による朝鮮特需によって経済を復興させ、経済白書が「もはや戦後ではない」と表明(7月)した年である。東西冷戦の緩和は日本外交にも影響し、10月には日ソ共同声明が出され、12月に懸案の国際連合加盟を果たした。政治情勢は前年の55年に成立した自由民主党と社会党という保革二党の対立を軸としながら自民党長期政権が続くという55年体制が始まった。
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ノートの参照
第16章2節 イ.ソ連の雪どけと平和共存政策