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ポーランド反ソ暴動/ポズナニ暴動

1956年、ソ連のスターリン批判を受けてポーランド民衆が自由を要求して決起した。ポズナニで始まった暴動が全国に広がったが、ソ連が介入して圧力を加え、復活したゴムウカが妥協点を探り沈静化した。

 1956年6月28日ソ連におけるスターリン批判コミンフォルム解散を受け、ポーランドのポズナニの民衆暴動から始まった反ソ暴動。同年のハンガリー反ソ暴動とともに東ヨーロッパ社会主義圏を動揺させたが、いずれもソ連軍の圧力と介入により抑えられた。

スターリン体制下のポーランド

 第二次世界大戦後のポーランドでは、戦前からの共産党指導者で、戦中に対独抵抗運動を指導したゴムウカが政権を握り、ソ連型一党独裁とは異なる路線を模索していた。しかし、1947年アメリカがマーシャル=プラン(経済復興支援計画)を発表、ソ連が対抗してコミンフォルムを結成したあたりから、ソ連とゴムウカの路線の違いが明確化し、1948年にゴムウカは右翼的民族主義に偏向したとして政権から追われた。ゴムウカが結成に漕ぎ着けていた統一労働者党は同年末に成立したが、党内では民族派に対してソ連の後押しで権力を握ろうとする親ソ派(スターリン派)が実権を握り、ゴムウカは1951年には逮捕・投獄されてしまった。
 東西冷戦が本格化する中、親ソ派による一党独裁体制が固められたポーランドでは、農業集団化と重工業化が進められ、同時にソ連のスターリン体制が押しつけられることとなり、ソ連の衛星国として従属させられていった。しかし、1953年にスターリンの死去とともにソ連共産党指導部内にも変化が現れ、その影響もポーランドに及ぶこととなった。

ポズナニ暴動

 1956年2月にソ連共産党第20回大会フルシチョフによるスターリン批判が行われ、その個人崇拝や粛清という政治手段、人権抑圧が非難された。またコミンフォルムも解散したことによってソ連共産党による各国の共産党への統制が弱まることとなった。このような急激で大きな情勢の中で、6月にポーランド西部のポズナニで暴動が起こった。
 ポズナニ(ポズナンとも表記する)はポーランド西部の工業都市。1956年6月28日、機関車や鉄道車輌を製作する工場の労働者が待遇改善を要求してデモを行ったところ、市民も加わり、放送局、裁判所、警察署などを襲撃する暴動となり、それがポーランド反ソ暴動の契機となった。
 ソ連共産党第20回大会に参加していたスターリン主義者で大統領(ポーランド統一労働者党党首)ビエルトがモスクワで客死、党内は混乱していた。ポーランド政府と統一労働者党は労働者の経営参加などの妥協策を示して収束を図り、ソ連との協議なしに第一書記にゴムウカを復帰させた。戦前からの共産党指導者であったゴムウカは、スターリンによって党を除名され、51年以降は投獄されていたが、スターリン批判が始まったことによって解放されていた。

ソ連の介入とゴムウカの復権

 この暴動を反ソ活動、外国の挑発と見たソ連当局は厳しい弾圧を指示し、ポーランド政府と対立した。フルシチョフ以下党幹部がポーランド首都のワルシャワ入りし、さらにソ連軍を国境地帯に移動させて圧力をかけたが、ポーランド側はソ連とねばり強く交渉し、また労働者、知識人が政府支持を表明して抵抗した。ゴムウカはフルシチョフに対してイデオロギーと安全保障でソ連と対立しないことを約束してたので、その復帰は認められ、ソ連軍の軍事介入も回避された。ゴムウカは10月に「社会主義の道」と題して演説し、スターリン主義と他国への従属に訣別したが、ワルシャワ条約機構からの脱退は否定した。
ハンガリー動乱との結末の違い ポーランドがワルシャワ条約機構から脱退しなかったのは、ゴムウカがドイツと西部で国境を接しているポーランドは軍事的なソ連との同盟からはずれるのは危険であると判断したからであったが、その点でゴムウカがソ連と妥協を図ったことが同じ時期に起こったハンガリー反ソ暴動の結末と大きな違いの理由であった。ハンガリーの指導者ナジ=イムレは、政治上のソ連からの自立とワルシャワ条約機構からの離脱を主張して譲らなかったため、ソ連は軍を直接首都ブダペストに侵攻させ、ナジ=イムレをとらえて処刑してしまった。ゴムウカがソ連との距離を保ちながら民族主義的な社会主義路線をとろうとしたこどで、ポーランドには一定の安定がもたらされた。

その後のポーランド

 国民の大きな支持を受けたがゴムウカであったが、次第にその姿勢は保守的、教条的となり、ソ連との関係も従属的になっていった。ゴムウカは現実的ではあったが、党の民主化などの改革に対しては原則的に反対する、保守的な共産主義者という本質だったと言える。1968年8月のチェコ事件ではポーランド軍をチェコに派遣し、その自由化を抑圧する側に回った。また経済の停滞も目立ち始め、1970年の政府の物価引き上げをきっかけにして大規模なストライキが起き、ゴムウカ退陣要求が強まり、ギエレクが第一書記となった。しかし、体制的な抑圧は続き、1980年の自主管理労組「連帯」の結成と、民主化闘争が始まり、1989年には東欧革命の先陣を切って民主化を達成することとなる。
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