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ポーランド反ソ暴動/ポズナニ暴動

1956年、ソ連のスターリン批判を受けてポーランド民衆が自由を要求し決起した。ポズナニ暴動から全国に広がったが、ソ連軍に鎮圧された。

 1956年、ソ連におけるスターリン批判コミンテルンの解散を受け、ポーランドのポズナニの民衆暴動から始まった反ソ暴動。同年のハンガリー反ソ暴動とともに東ヨーロッパ社会主義圏を動揺させたがソ連軍の圧力により鎮圧された。
 第二次世界大戦後のポーランドでは統一労働者党がソ連の後押しで権力を握り、戦前からの共産主義指導者ゴムウカを民族派として逮捕し、一党独裁体制を固めた。そのもとで集団化と重工業化を進められたが、同時にソ連共産党の独裁的な権力を握ったスターリン体制が押しつけられることとなった。1953年にスターリンが死去すると、ソ連共産党指導部内にも変化が現れた。

ポズナニ暴動

 1956年にソ連共産党でフルシチョフによるスターリン批判が行われ、その個人崇拝や粛清という政治手段、人権抑圧が非難された。ポーランドでもスターリン主義者のビエルト大統領が死去した。このような情勢の中で、6月に西部のポズナニで暴動が起こった。
 ポズナニはポズナンとも表記するポーランド西部の工業都市。1956年6月28日、機関車や鉄道車輌を製作する工場の労働者が待遇改善を要求してデモを行ったところ、市民も加わり、放送局、裁判所、警察署などを襲撃する暴動となり、それがポーランド反ソ暴動の契機となった。
 政府と党は労働者の経営参加などの妥協策を示して収束を図ったが、この暴動を反ソ活動、外国の挑発と見たソ連当局は厳しい弾圧を指示し、ポーランド政府と対立した。

ソ連軍の介入とゴムウカの復権

 ソ連はフルシチョフ以下要人がワルシャワ入りし、さらにソ連軍を国境地帯に移動させて圧力をかけたが、ポーランド側はソ連とねばり強く交渉し、また労働者、知識人が政府支持を表明して支援、ついに第一書記にゴムウカの復帰を認めさせた。ゴムウカは10月に「社会主義の道」と題して演説し、スターリン主義と他国への従属に訣別したが、ワルシャワ条約機構からの脱退は否定し、ソ連との距離を保ちながら民族主義的な社会主義路線をとることとなる。

その後のポーランド

 国民の大きな支持を受けたがゴムウカであったが、次第にその姿勢は保守的となり、1968年のチェコ事件ではポーランド軍をチェコに派遣し、その自由かを抑圧する側に回った。また経済の停滞も目立ち始め、1970年の政府の物価引き上げを気にして大規模なストライキが起き、ゴムウカ退陣要求が強まり、ギエレクが第一書記となった。しかし、体制的な抑圧は続き、1980年の自主管理労組「連帯」の結成と、民主化闘争が始まり、1989年の東欧革命の時に民主化を達成する。
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ノートの参照
第16章2節 イ.ソ連の雪どけと平和共存政策