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フォード(アメリカ大統領)

アメリカ合衆国第38代大統領。ニクソンの副大統領から昇格。1970年代中頃のデタント(緊張緩和)を推進しヘルシンキ宣言をとりまとめた。

 アメリカ合衆国大統領。Gerald R. Ford 在任は1974~1977年。共和党下院議員で院内総務を務めていたとき、ニクンソ政権のアグニュー副大統領が汚職事件で辞任し、副大統領に任命された。さらにニクンソ大統領がウォーターゲート事件で辞任に追い込まれた後、大統領に昇格した。副大統領としても、大統領としても、選挙で選ばれなかったのはフォードだけである。
 フォード大統領の仕事は、ベトナム戦争の収拾と、ウォーターゲート事件による混乱から威信を復活させることにあった。しかし、就任1ヶ月後にニクソンに恩赦を与え、国民の不信を買った。ベトナム戦争ではすでにアメリカ軍はベトナムから撤退しており、75年4月にサイゴン陥落によって南ベトナム政府が崩壊したが、フォードはベトナムへの再派兵は行わなかった。

緊張緩和に貢献

 その後の外交問題ではキッシンジャーを国務長官に留任させ、ソ連とのデタント(緊張緩和)を推進し、中東問題でも積極的にうごいた。1974年にはブレジネフと会見して戦略兵器制限交渉(第2次)(SALT・Ⅱ)について教護し、1975年にはヨーロッパに渡り、全欧安全保障協力会議(CSCE)では最終文書としてヘルシンキ宣言の成立に中心的役割を果たしたことは評価することができる。
 アジアでは1974年の日本・韓国訪問に続き、75年に大統領として中国を訪問、毛沢東(76年に死去)と会談し米中関係改善を進めた。訪中後、「新太平洋ドクトリン」を発表し、ベトナム戦争後のアジア安全保障について、東南アジア諸国との連携とともに、日本との協力、中国との関係改善の推進などを掲げた。
 フォード大統領は、外交では一定の成果を得たが、もう一つの課題であった不況克服は、OPECの原油価格引き上げもあって失敗し、鉄工業・自動車工業などが停滞、日本との貿易摩擦も深刻となった。
 1976年に再任を目指して立候補したが、民主党カーターに敗れた。結局、フォードは国民から選ばれなかった唯一の大統領となった。

日米関係の新時代

 フォード大統領は1974年11月、日本を訪問した。かつて1879年にグラントが来日し、明治天皇と会見したがそのときは大統領を退いており、アイゼンハウアーは訪日が決まっていたが、1960年の激しい安保闘争の最中で「アイク来日阻止」が叫ばれ実現しなかったので、フォードは現職として初めて日本を訪問した大統領となった。
 当時、日米は“繊維戦争”といわれた貿易摩擦が続いていた。日米貿易全般でも戦後つねにアメリカ側の輸出超過であったものが、1965年から日本側の輸出超過に転じていた。経済大国となった日本が、経済面ではアメリカと競合するようになり、アメリカもまたニクソン=ショックに見られるように唯一の経済大国として君臨する時代は終わり、日本・EC(ヨーロッパ共同体)との三極時代に入り、より多角的な外交を展開しなければならなかった。フォード来日および翌75年秋の昭和天皇の訪米はこのような日米関係の新時代を象徴する出来事であった。<斉藤眞『アメリカ現代史』世界現代史32 山川出版社 1976 p.335>

出身校を間違えられた大統領

 フォードは若い頃、University of Michigan (俗に Michigan University )と言うミシガン州立の大学でアメリカンフットボールのスター選手だった。彼が大統領として中国を訪問したとき、中国政府の儀典係(protocol)が気を利かせて大学の応援歌をバンドで演奏させた。ところが何とそれは Michigan State University という同じ州立でも違う大学で、しかも両校はライバル関係にあった。フォード大統領は苦い顔でその演奏を聞いていたそうです。アメリカの州の中にはミシガン州だけでなく、州立大学が複数あるところも多いので、大学名には注意しなければならない。ミシガン州で言えば、「ミシガン州立大学」というと二つの大学を意味することになってしまうので、区別するなら、ミシガン大学とミシガンステート大学(ミシガン州大学)といわなければならない。<秋間浩『アメリカ200のキーワード』朝日選書 1991 p.238 State University の項>
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ノートの参照
第16章4節 イ.米ソ両両大国の動揺
書籍案内

斉藤眞『アメリカ現代史』
世界現代史32
山川出版社 1976

秋間浩
『アメリカ200のキーワード』
1991 朝日選書