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プロレタリア文化大革命

1960年代後半からの毛沢東によって提起された中国革命の徹底運動。文化上の反革命批判から始まり、紅衛兵などの大衆的運動が盛り上がり、資本主義に傾いた党幹部や守旧派が厳しく糾弾された。権力闘争の側面も強く、権力を握った毛沢東夫人江青や四人組などの極端な政策によって中国は大きく混乱し、経済は停滞した。76年の毛沢東の死去から収束に向かい、改革開放路線に転換したその後の中国では否定的にとらえられレいる。

 文化大革命とは何か、という問に明確に答えるのは困難であるが、一つのまとめとしてここでは次の説明を引用しておく。
(引用)プロレタリア文化大革命(文革)とは、広義には1965ないしは66年から76年の毛沢東の死に至る時期に見られた毛の理念の追求、ライバルとの権力抗争といった政治闘争に加えて、それらの影響を強く受けながら、大嵐のごとき暴力、破壊、混乱が全社会を震撼させ、従来の国歌や社会が機能麻痺を起こし、多くの人々に政治的、経済的、心理的苦痛と犠牲を強いた悲劇的な現象の総体を称する。文革の犠牲者は、正確にはわからないが死者一〇〇〇万人、被害者一億人、経済的損失は約五〇〇〇億元とも言われるほどであった。狭義には、66年から69年の中共第九回全国大会までの中央から末端に至る、「紅衛兵」、労働者、農民らをまきこんだ激しい政治闘争を指す。」<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 p.60>
  毛沢東  劉少奇  鄧小平  周恩来  紅衛兵  林彪  江青  四人組

文化大革命の終了

1976年の毛沢東の死去によって情勢変化し、77年に新執行部の華国鋒が文革終了を宣言。80年に鄧小平が実権を握り、改革開放路線に転換する。

 1976年9月9日、82歳の毛沢東が死去江青四人組は後ろ盾を失った。かれらの恣意的な政権運用については批判が強まり、文化大革命による生産力の減退、経済の混乱などに対する不満も強まっていた。そのような情勢の中で、1977年8月、中共第11回全国大会において、華国鋒は「プロレタリア独裁下の継続革命は偉大な思想」と毛沢東路線を讃えると同時に、革命と建設の新たな段階に入ったとして「第一次文化大革命が勝利の内に終結した」と宣言し、「四つの現代化建設」(近代化とも言う)を掲げた。1970年代後半から沈静化していた文化大革命は、1977年8月に正式に終了した。

1978年 北京の春

 この年から始まった名誉回復は、三年間で290万に達した。57年の反右派闘争以来右派分子とされていた人々55万人に対しても、名誉回復がなされた。また78年10月以降、北京その他の大都市で、天安門事件(第1次)の名誉回復、民主化の要求、中には毛沢東体制の批判の壁新聞が貼り出された。北京西単の交差点にある掲示板は「民主の壁」と言われ、またこの年を「北京の春」と言われた。

鄧小平の復権

 この間、1977年に復権した鄧小平の指導力が強まり、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議でその主導の下に「近代化された社会主義」を目指す新憲法が採択され、経済発展を目指す改革開放路線を打ち出した。79年には米中国交正常化を実現させ、鄧小平自ら渡米して科学技術協力協定などを締結、改革路線を定着させた。1980年には鄧小平は華国鋒首相を辞任させ、権力を集中させた。同年、劉少奇は名誉を回復し、それと並行して「林彪・四人組裁判」が実施され、江青・張春橋・陳伯達らに死刑や懲役の判決が下された。これらは「文革否定」の決定的な動きであった。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>
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ノートの参照
第16章3節 ウ.動揺する中国