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中ソ対立

1956年のソ連のスターリン批判を契機に中国(毛沢東)とソ連(フルシチョフ)の間で路線対立が始まり、60年代には国境紛争などの対立が深まった。70年代の文化大革命期にも対立き、中国はアメリカに接近した。76年の毛沢東死去により歩み寄りの動きが強まり、80年代には関係を修復した。

 1950年代の理論対立に始まり、1960年代に公然としたソヴィエト連邦中華人民共和国の社会主義革命路線を巡る対立。両国の対立にとどまらず、社会主義陣営が二分されることとなり、東西冷戦を変質させることとなった。1980年代にはソ連のペレストロイカ、中国の改革開放路線への転換によって対立は沈静化し、1989年のゴルバチョフ訪中によって終わった。

中ソ対立の始まり:50年代

 同じ社会主義(マルクス=レーニン主義)を掲げて共産国家建設を目指していたソ連と中国は中ソ友好同盟相互援助条約(1950年締結、1979年消滅)で結ばれた同盟国であったが、1950年代後半から革命観の違い、戦略論の違い、国際政治上の意見の対立などが目立ち始めた。きっかけは1956年のソ連のスターリン批判であり、平和共存路線をとるようになったことであった。中国共産党の毛沢東はスターリン路線の継承する立場からフルシチョフらソ連共産党の転身を修正主義であるとし、また平和共存路線は帝国主義への屈服であるとして受け入れないと姿勢をとった。

対立の公然化:60年代

 はじめは理論的な面での論争が主であったが、1958年の中国軍の金門・馬祖島砲撃事件や59年のチベット反乱中印国境紛争など緊張が高まる中、1960年代からは公然とした非難を互いにぶつけあう対立となった。ソ連は59年、核兵器開発への協力を中止、さらに中ソ技術協定を破棄し技術者の引揚げを通告、対立は決定的となった。
 毛沢東は独自の社会主義建設を目指して「大躍進」運動を開始し、第2次五カ年計画ではソ連の援助なしの工業化をめざした。また1962年のキューバ危機を回避した米ソ両国が、63年に部分的核実験停止条約に合意すると、それに反発して自前の核兵器開発を始め、64年に中国の核実験を成功させた。同年のフルシチョフ失脚後も対立は続き、65年ごろから本格化した文化大革命でも毛沢東はソ連を修正主義として激しく非難した。

中ソ国境紛争

 1968年にはチェコ事件でソ連のブレジネフ政権がワルシャワ条約機構軍による武力介入したことにも毛沢東は大きな危機感を抱き、ソ連との武力衝突にも備えたという。69年にはウスリー江の珍宝島事件などの中ソ国境紛争に発展した。ベトナム戦争でも中ソは共同歩調をとることが無く、アメリカの武力行使を可能にしたという側面がある。毛沢東はソ連を最重要の敵と位置づけるまで対立をエスカレートさせたが、各国の共産党はアルバニアをのぞいておおむねソ連共産党を支持した。

米中接近による変化:70年代

 しかし文化大革命の国内闘争が激しくなり、ソ連の社会主義も硬直した指導部の下で経済の停滞を招き、70年代には米中が接近するという状況となった。76年には毛沢東が死去し、情勢は変化の兆しが見え始めた。79年2月には中越戦争が起き、ソ連はベトナムを支援、再び関係は悪化した。しかし、中国の華国鋒指導部はベトナムから撤退を余儀なくされて指導力を低下させた。同年、50年に締結された中ソ友好同盟相互援助条約も期限切れになり、延長されずに廃棄された。あらたな中ソ関係の模索が始まったが、同年12月、ソ連のアフガニスタン侵攻が起きると、中国はソ連の覇権主義を非難して、翌年のモスクワ=オリンピックをボイコットした。

中ソ対立の鎮静化:80年代

 中国で華国鋒にかわり鄧小平が改革開放路線がとられるようになり、80年代は対立も沈静化が始まった。そしてソ連で85年にゴルバチョフのペレストロイカが始まることによって両国関係は急速に改善が進み、1989年5月、ゴルバチョフが訪中し、30年ぶりに中ソは国交を正常化させた。ちょうどそのとき、北京は第2次天安門事件の騒乱の最中であった。

中ソの対立点

:ソ連共産党と中国共産党の対立点の整理の一例。(主としてフルシチョフ対毛沢東の時代の主な論点を整理したもの)<毛里和子『中国とソ連』1989 岩波新書 p.75>
・核時代の戦争と平和の問題……
 ソ連:核戦争は世界を破滅させる。大国間の軍縮や平和闘争で戦争を避けることができる。
 中国:歴史を決めるのは兵器ではなく人民である。戦争を防ぐのは人民の反帝国闘争である。
・世界の矛盾とはないか……
 ソ連:二つの陣営の対立が主な矛盾である。
 中国:帝国主義と民族主義が主要矛盾であり他に体制間、階級闘争、、帝国主義相互間という4つの矛盾がある。
・平和共存について……
 ソ連:現代は体制間には平和共存・平和的競争か、破滅的戦争か、二つに一つだ。
 中国:体制間の平和共存は認めるが、それを抑圧国と被抑圧国や階級関係におしひろげてはならない。
・革命の平和的移行について……
 ソ連:平和共存のもとで、社会主義へ平和的に移る可能性は強い。
 中国:革命の移行はその国の国情によって違う。平和移行を戦略原則にすべきでない。
・社会主義社会の階級闘争について
 ソ連:59年に社会主義が最終的に勝利し「全人民の国家」になった。階級闘争などあり得ない。
 中国:共産主義にいたる全期間において階級および階級闘争は存在する。ソ連指導部はブルジョアジーの代表である。
※ソ連が崩壊し、中国も改革開放路線に転じた現在に至っては、この対立は一体何だったのか、何を生み出したのか、どう総括されるべきなのか、疑問が多い。
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ノートの参照
第16章3節 ウ.動揺する中国
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毛利里子
『中国とソ連』
1989 岩波新書