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テーベ/ルクソール

エジプト中王国、新王国の都。ナイル中流にある。現在のルクソール。近くに「王家の谷」、「カルナック神殿」などの遺跡が多い。

ルクソール GoogleMap

 エジプト中王国新王国時代の都で、ナイル川河口のアレクサンドリアからは約千キロ南の中流(上エジプト)に位置する。ギリシア語でテーベと言われたが、古代エジプトではワセトと呼ばれていた。現在ではルクソールと言われて、市街地の中心はナイル川東岸になっているが、「王家の谷」はその対岸のナイル西岸にある。

エジプト新王国の都として繁栄

 エジプトの古王国は、下エジプトのメンフィスを都としていたが、前2040年頃、テーベの王が上下エジプトを再統一して中王国の時代となった。その後、前18世紀にはヒクソスの侵入などで混乱が続いたが、前1552年にテーベの王がヒクソスを追い、新王国(第18王朝から第20王朝)を建て、テーベは再び都となった。
 テーベには、守護神アメン神が祀られ、周辺にはカルナック神殿、ルクソール神殿などが作られた。またテーベにはアメン神を祭る神官が大きな勢力を持っていた。近くにファラオたちの墳墓である「王家の谷」もある。
 アメンホテプ4世(イクナトン)の時、一時都はテル=エル=アマルナ、さらにメンフィスに移されたが、このアマルナ革命と言われた変革は失敗に終わり、都はテーベに戻された。その後のラメセス2世時代にテーベでカルナック神殿などの大造営が行われた。
 新王国時代のテーベは、人口が百万人あり、オリエント世界最大の都市となった。しかし、前4世紀にアレクサンドロス大王がナイル河口にアレクサンドリアを建設し、その死後はアレクサンドリアがプトレマイオス朝エジプトの都となると、遠く離れたテーベは衰退し、エジプト中王国・新王国の栄華を伝える神殿のみが残る宗教都市となった。

Episode クレオパトラの夢

デンデラ、ハトホル神殿

ルクソール(古代のテーベ)近郊のデンデラ神殿の中心、ハトホル神殿の壁面レリーフで、左がクレオパトラ、右がカエサリオン。 (トリップアドバイザー提供)

 古代のテーベ、現在のルクソールの北へ約100キロのデンデラには、プトレマイオス朝からローマ時代にかけて造られた神殿の遺跡がある。その中心のハトホル神殿は、王ファラオと同一視されていたホルス神の母、イシス女神を祀っている。プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラは自分をイシス神の化身と考えていたので、この神殿の背後に自分の姿を彫らせている。そこにはイシス神の姿をしたクレオパトラと、ホルス神に擬したその息子カエサリオン(カエサルとの間に生まれた男子)が描かれ、その右手のアメン神を初めとするエジプト神々に向かって、クレオパトラが将来のエジプトを担うカエサリオンをよろしくと頼み、神々が会議でそれを認定しているという構図になっている。
 この神殿のレリーフは、彼女が絶頂にあった時、カエサルと共にナイル川を遡ってテーベに立ち寄り、そこに自分の記念碑を建て、エジプトの神々に捧げようと思い立った。後にカエサリオンが生まれると、カエサリオンがエジプトの統治者、そしてカエサルの後継者としてローマをも含む世界帝国の統治者となることを願い、自らはその母后となるであろうという希望に満ちあふれていた。このクレオパトラの壮大な夢を物語るのがこのデンデラ神殿のレリーフである。
 なお、ここに刻まれているクレオパトラを示すカルトゥーシュ(枠に囲まれた王名)に刻まれた神聖文字(ヒエログリフ)が、シャンポリオンロゼッタ=ストーンを解読するときに使われた。<吉村作治『クレオパトラの謎』1983 講談社現代新書 p.9-14>

NewS ローマ時代の都市遺跡発掘

 CNNなど各社は、2023年1月28日、エジプト南部ルクソールで1800年前の古代ローマ時代の完全な都市を発見した、と報じた。エジプト考古最高評議会のムスタファ・ワジリ事務局長によると、この都市は2~3世紀にさかのぼるもので、「ルクソール東岸で最古の最も重要な都市」だという。遺跡の中には、「ハトの塔」2棟が初めて見つかり、伝書バトが飼育され、ローマ帝国の他の地域へのメッセージ伝達に利用されていたことが判明した。発掘作業は昨年9月から始まり、道具やつぼ、青銅や銅でできたローマ時代の硬貨も大量に出土した。
 ルクソールはナイル川の河岸に位置する現代の都市で、古代エジプトの名高い都市テーベの跡地に建てられている。世界的に有名な「王家の谷」と「王妃の谷」があり、1979年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された。CNNニュース 2023/1/28 ネット記事

ルクソール事件

 1997年11月、エジプトのルクソールで、日本人10人を含む多数の外国人観光客が殺されるというテロ事件がおこった。事件を起こしたのはイスラーム原理主義を掲げる過激派「イスラーム集団」とされたが、これはエジプトのムスリム同胞団から分離した過激グループで、穏健な主流派に反発しており、外国人観光客を襲撃することで世俗主義をとるムバラク政権に打撃を与えようとしたものであった。
 有名なアブシンベル神殿を観光しようとしてやってきた外国人が神殿に上がる階段で一斉に銃撃され、日本人10人を含む犠牲者が多数出たことから、世界中を驚愕させた。この事件でエジプト観光は一斉に中止となり、観光業者は大きな打撃を受けた。本家のムスリム同胞団は犯行を非難する声明を出し、アラブ世界の原理主義運動主流派各組織も一斉に批判したため、同様の事件は繰り返されなかったが、湾岸戦争後のアラブ世界の運動の混迷を象徴する事件となった。