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シラクサ

シチリア島の南部にある古代都市。ギリシア人の植民都市として建設され、前5~4世紀にはカルタゴに対抗し地中海貿易で活躍したが、ローマに征服され前211年その属州となった。

シラクサ(シラクーザ) GoogleMap

シラクサはイタリア南部のシチリア島東岸に前733年、ギリシア人の植民市として建設されたと伝えられている都市で、ギリシア名をシュラクサイという。今も前5世紀に建設された、大規模な円形劇場など、ギリシア風の遺跡か多く残っており、ペルシア戦争などではギリシアの一部として歴史に登場する。またプラトンやアルキメデスが活動した地としても知られる。前5世紀前半にはゲロンとヒエロンの兄弟、前4世紀後半にはディオニュシオス1世(前430頃~前367)という僭主が治めた。その後も地中海の中心に位置する港市として繁栄したが、前211年にはローマに敗れ、その属州となった。その後も、ローマ帝国、ビザンツ帝国、イスラーム勢力、ノルマン人などの支配を受けながら、独自の文化を形成した。

ギリシア人の植民市として始まる

 シラクサを建設したのはギリシアのコリントであった。前733年のこととされている。前5世紀の初め頃、ゲロンとヒエロンという兄弟の僭主が現れ、フェニキア人の植民市カルタゴと争った。ペルシア戦争中の前480年のサラミスの海戦と同じ時に、シラクサはカルタゴ海軍と戦って、ヒメラの戦いに勝利している。さらに前474年にはイタリア半島を南下してきたエトルリアとのクマエの戦いで勝ち、東地中海の商業圏を支配して繁栄した。

ペロポネソス戦争

 ペルシア戦争後、アテネはデロス同盟の盟主としてギリシアの覇権を握り、海上帝国として地中海にもその勢力を及ぼしていった。アテネの干渉に反発したシラクサはスパルタと同盟するようになった。アテネとスパルタとの間でペロポネソス戦争が起こると、本土でのスパルタ軍との戦いで劣勢に陥ったアテネは、海軍を派遣してシラクサ攻撃をはかり、起死回生をはかった。しかし、前413年に行われたアテネ海軍のシチリア遠征は、シラクサ・スパルタ連合軍に敗れ、アテネの勢力後退は決定的になった。

Episode シラクサの月蝕

 アテネの遠征軍に対してシラクサはスパルタ海軍の応援を得て反撃に出ようとした。劣勢に陥ったアテネ海軍は危機を脱するためシラクサ軍の態勢が整う前に撤退を決定しその準備に入った、ところがいざ撤退となった前413年8月27日の夜、予想しなかった事態が起こった。
(引用)・・・(シラクサ海軍に知られないようにシチリアから撤退しようとしたアテネ海軍の)指揮官らは、あたう限り機密を保持しながら全軍にあらかじめ通牒を発し、陣地から出航するから、命令があり次第ただちに行動に移れるように準備を完了しておくように、と伝えた。やがてその準備がととのい、今にも船出という瞬間になって、月蝕が起こった。偶々、これは満月の夜であったからである。するとアテーナイ勢の過半の兵士らはみなこれを気に病んで、指揮官たちに出航中止を要請し、またニーキアース(総司令官)自身も(かれは神託予言などの類をやや偏重しすぎる性質であった)、予言者たちがこの兆を解いて言っているように、二十七日間の日数が経過するまでは、その先いかなる行動を取るべきかについて協議することも、謹みたい、と言った。そして月蝕のために遅延をきたしたアテーナイ勢は、なおも逗留を長びかせることになってしまったのでる。<トゥーキュディデース/久保正彰訳『戦史』下 岩波文庫 p.198>
 アテネ軍が撤退のチャンスを逸したのにたいし、態勢を整えたシラクサ軍は陸上ではアテネ軍の基地を襲い、海上ではアテネ海軍を封鎖して動きを封じ、大勝利をしめることができた。アテネはシチリア遠征の失敗によってギリシアの覇権を失うことになった。

僭主ディオニュシオス1世とプラトン

 また前4世紀のはじめ、ディオニュシオス1世が僭主政治を行い、3次にわたってカルタゴと戦った。このころプラトンも一時シラクサに滞在、その政治に関与し、理想国家の建設を目指したが、僭主とは意見が対立しアテネに戻った。次のディオニュシオス2世も、二度にわたりプラトンを招聘したが、ディオニュシオス2世は結局プラトンの説教を疎ましく思うようになって反発したため、何の成果もなくアテネに帰った。なおこのシラクサの僭主ディオニュシオス2世は、「ダモクレスの剣」の故事で知られている。ダモクレスの剣については核兵器開発競争の項を参照してください。

Episode 『走れメロス』の舞台

 太宰治の短編小説『走れメロス』の舞台となったのが、僭主ディオニュシオス1世の時のシラクサである。小説ではシラクスという国の暴君ディオニスとして出てくる。メロスが激怒し、「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」、あの暴君である。「王を除かねばならぬ」というメロスの決意は、22歳頃の昭和6年に反帝国主義学生同盟に加わって非合法活動を経験した頃の太宰自身が投影されているのではないだろうか。発表されたのは日中戦争最中の昭和15年(1940年)だから、不敬思想で大問題になりかねない表現だが、この作品では暴君はメロスを許し、大団円させたことも、運動に挫折し転向した太宰の過去が投影していると見られないこともない。

カルタゴとの抗争

 イタリア中部の都市国家ローマは前3世紀中頃までにイタリア半島の統一を進め、さらに地中海貿易にも進出すると、カルタゴとの利害の対立が激しくなった。ローマは、シラクサがカルタゴとの争いからローマに救援を要請したことを好機として捉え、前264年にカルタゴとの戦いに踏みきり、第1回ポエニ戦争が始まった。この戦いはローマの勝利となり、シチリア島の西部はローマの支配下に入り、ローマ最初の属州とされた。しかし、シラクサを中心とする島の東部はローマの同盟国としてシラクサ王の統治が認められた。

第2次ポエニ戦争

 前218年、第2回ポエニ戦争が始まり、カルタゴ軍のハンニバルがイタリアに侵攻、カンネーの戦いで勝利するなど、カルタゴの優勢の状況の中で、前215年ヒエロン2世が90歳で死去、孫のヒエロニュモスが王位を継承した。ハンニバルは14歳の新王に同盟を働きかけ、新王は反対を押し切ってカルタゴとの同盟に踏みきり、反ローマを鮮明にした。しかし、ローマはシチリア島西部に援軍を派遣、反撃に転じてシチリアを攻撃した。このとき、シラクサの防衛で城郭の設計や武器の製造に活躍したのがアルキメデスであった。シラクサでのローマ軍とカルタゴ軍の戦いは一進一退で続いたが、ついに前212年、ローマ軍がシラクサに突入、その勝利に終わった。このとき、アルキメデスも戦死した。翌前211年、シラクサは属州シチリアの州都としてローマの支配を受ける。

ビザンツ、イスラーム、ノルマンの支配が交替

 ローマ帝国が東西に分裂した後、6世紀には地中海支配を回復した東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の支配が及び、その後北イタリアはゲルマン人諸国、ローマ周辺はローマ教皇領となったが、南イタリア・シチリア島は東ローマ帝国=ビザンツ帝国の支配が続いた。
 ところが8世紀以降、イスラーム勢力の侵入が始まり、9世紀にはチュニジアのアグラブ朝によるシチリア島侵攻が開始され、878年にシラクサも陥落、イスラームの支配を受けることとなった。
 南イタリアやシチリアのキリスト教徒は、ノルマン人に撃退を依頼、その結果、1130年、ノルマン人のルッジェーロ2世がシチリア島西岸のパレルモを都にシチリア王国ノルマン朝)を建てた。ついで両シチリア王国の王位は1194年には、神聖ローマ帝国シュタウフェン朝のドイツ王が継承することとなった。
 このように、シラクサにはギリシア、カルタゴ、ローマ、イスラーム、ノルマンなどの文化が相次いで交替した。シラクサは現在は小さな町になってしまい、かつての繁栄の跡は見られないが、その西にあるアグリジェント(ギリシア時代のアグリゲントゥム)にはギリシア建築の神殿が残っている。

Episode 和辻哲郎のシラクサ訪問

 1928(昭和3)年にシラクサを訪ねた和辻哲郎はその著『イタリア古寺巡礼』でアグリジェントのギリシア時代の神殿を見てこんな感想を記している。
(引用)これらのギリシア建築を見て、まず第一に受けた印象は、その粛然とした感じである。この感じだけは、後の時代のどんな美しい建築にもないように思う。しんとしていて、そうして底力がある。これはおそらく他の時代の建築に見られないあの「単純さ」に起因するのかも知れない。・・・<和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』岩波文庫 p.144>