ネアポリス/ナポリ
ギリシア人の植民都市で、現在のナポリの起源。地中海交易で繁栄し、様々な勢力による支配が後退した後、ノルマン系のシチリア王国から1282年に分離してナポリ王国となる。
ギリシア人の植民市
ナポリとシチリア島 YahooMap
ギリシア人は植民活動と共にイタリア半島中部のエトルリア人などと地中海における交易活動を盛んに行い、ネアポリスはその中の重要な都市国家として発展した。しかし、同じように地中海に進出したフェニキア人とは対抗関係にあった。また、イタリア中部の都市国家ローマが急速に発展し、その支配が南イタリアに及ぶと独立性を失い、ローマに従属した。 → ナポリ王国
ビザンツ帝国の支配
ローマ時代も南イタリアの重要な港として繁栄が続いたが、ローマ帝国の衰退後は、ゲルマン人の一派でイタリア半島に入った東ゴート王国の支配下に入った。6世紀にはビザンツ帝国のユスティニアヌスが西地中海支配の回復をはかってヴァンダル王国に続いて東ゴート王国軍を破り、536年にネアポリスもビザンツ領となった。北イタリアのラヴェンナを都とするビザンツ帝国から755年頃、ナポリ公国としてしての地位を与えられ、事実上自立した。9世紀にはイスラームの侵入が、シチリア島やイタリア半島南部に及んだが、ナポリはその支配を免れた。ノルマン朝シチリア王国
12世紀にはノルマン人が進出、イスラーム勢力を支配下に収め、南イタリア一帯をも制圧した。1130年にシチリア島のパレルモで即位し、ノルマン朝を創始したルッジェーロ2世は、1140年ごろまでに南イタリアを制圧して、シチリア島とナポリを中心とした南イタリアにまたがる王国として支配した。この王国を後に両シチリア王国ともいうようになった。シュタウフェン朝
その後、南イタリアはローマ教皇、神聖ローマ皇帝、フランス、スペインなどの抗争の場となり、様々な政権が交替した。ノルマン朝も王統が断絶して1194年にシュタウフェン朝となり、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(フェデリーコ2世)がシチリア王を兼ねてパレルモで統治した。1224年には、フリードリヒ2世により、ナポリ大学が創設されている。1250年、フリードリヒ2世が死ぬと南イタリアは混迷し、1266年にローマ教皇の要請でシチリア攻撃に向かったフランスのアンジュー家のシャルルがシチリア王国を征服、ナポリも同じくシャルルに征服されて、パレルモにかわる新たな都とされた。しかし、フランス人の支配を受けることにたいする反発が特にシチリアで高まっていった。ナポリ王国
フランス人であるアンジュー家の支配に対しする反発が強まる中、シチリアのパレルモで、1282年にシチリアの晩祷事件がおこり、スペインのアラゴン王国がシチリアを実効支配することとなった。しかし、ナポリではアンジュー家の支配が続いたので、1302年にアラゴン王家によるシチリア王国が成立すると、ナポリはナポリ王国(正式にはシチリア王国と称した)の単独の都となった。続く外国支配
ところが、1435年にはアンジュー家の王位も断絶して、1443年にはスペインのアラゴン王国(シチリア島を支配していた)アルフォンソ5世に併合されるなど、スペイン・フランスのこの地をめぐる争いは続いた。1494年にはフランスのシャルル8世がナポリ王の王位継承権を主張してナポリに遠征し、ローマ教皇とスペイン王などとのイタリア戦争となった。しかしフランス軍は撤退し、結果的に1503年にナポリはスペイン王国(ハプスブルク家)に併合されることとなった。スペインによる支配はその後も続き、18世紀に入るとスペイン継承戦争の際にはオーストリアに占領されたが、1735年にはスペイン王国(ブルボン家)が奪回して両シチリア王国を回復した。
ナポレオンの支配からイタリア統一へ
1806年にはナポレオンのイタリア支配の一環として、その兄ジョゼフをナポリ王とした。しかし、ナポレオン没落に伴い、1816年、再び両シチリア王国となってナポリ王国は消滅した。ウィーン体制崩壊後に急速に高まったイタリア統一運動(リソルジメント)の動きの中で、1860年、ガリバルディがこの地を征服、サルデーニャ王国ヴィットリオ=ーエマヌエーレ2世に献上した。こうしてナポリは、1861年に成立したイタリア王国の一部となった。 → イタリア
参考 南イタリアの困窮の歴史的背景
イタリアは統一後に南北問題が明らかになり、それは現在まで尾を引いていると見ることもできる。イタリアの南北問題とは「南が経済的に北に従属する構造――そこから生じる南イタリアの構造的困窮」ということであるが、そのような構造が明確になるのは15世紀に始まるスペインによる南イタリア(ナポリとシチリア島)支配の時期に始まっている。スペインによる南イタリア支配はどのようなものだったのだろうか。(引用)スペイン支配下では、諸侯や騎士の権利は抑制され、都市の自治も完全に抑圧されました。商業は特権を得た外国商人が行い、宮廷の高級役職も王国の財政実務も外国人が独占しました。本国からやってきた王族や王権と結託して広大な所領をもつ大貴族だけでなく、土着の貴族も、スペイン王に忠誠誓約をし軍役奉仕をすることで、特権を得ました。領主が農民を収奪する構造、外国人のために現地人が犠牲になるという構造がずっとつずいたのです。また、イタリアの北・中部の都市は、ナポリ王国に毛織物などの各種商品を輸出して、小麦をはじめとする食料・原料を輸入するようになりました。イタリア統一囲碁明白になる南北問題――南が経済的に北に従属する構造――は、すでにこの時期から始まっていたと考えられます。<池上俊一『パスタでたどるイタリア史』2011 岩波ジュニア新書 p.64-65>
パスタでたどるナポリの歴史
パスタの故郷、ナポリ イタリア料理の代表、パスタには北イタリアの生パスタと南イタリアの感想パスタの違いがある。乾燥パスタ(マッケローニ)はイスラーム教徒のアラブ人から伝えられたもので、13世紀にはナポリの特産となった。17世紀には商品用のパスタ製造は、桶に小麦粉と水を入れ天井から吊した紐につかまって体を支え、脚で踏みながら生地を捏ねるといった、ちょっと乱暴なやり方で作られており、やがて水力や動物力が使われて大量生産されるようになった。パスタ造りのギルドも生まれた。<池上俊一『パスタでたどるイタリア史』2011 岩波ジュニア新書 p.49>トマトとトウガラシ もともとパスタが食べられていたナポリに、大航海時代に新しい食材が入ってきて、それがパスタ料理を劇的に変化させた。その食材とはトマトとトウガラシといういずれもアメリカ新大陸原産の植物だった。ナポリがスペイン領であったことから新大陸を征服したスペインによってこの二つの植物の種が16世紀中ごろ持ち込まれた。初めは食用ではなく観賞用だったが、17世紀の末にナポリの料理人がトマトソースをパスタに添えるレシピを開発し、ナポリはトマトソースで食べるスパゲティの本場になったのだった。<池上俊一『同上書』p.66>
Episode ナポリ人はマッケローニ食い
スペイン王国の支配のもとで貧困にあえいでいたナポリの市民や周辺の農民は、1584年と1647年の二度、マザニエッロの反乱という反乱を起こしている。いずれも食糧不足、飢えに起因していた。二度目の反乱の後、それまでナポリ人は肉と野菜を組み合わせた食生活から、乾燥パスタ(マッケローニ)を主食とするようになった。マッケローニとは現在のマカロニのことではなく、パスタ全般を指しており、現在のスパゲティ(ナポリではヴェルミチェッリ)も含まれている。このころからパスタは貧しい民衆も食べられるようになり、主食へと上昇し、イタリア各地、ヨーロッパ各国へも輸出されるようになった。<池上俊一『同上書』p.79>