印刷 | 通常画面に戻る |

ポリスの衰退

ペロポネソス戦争の長期化の結果、ギリシアのポリスの衰退が始まる。ギリシアの北方のマケドニアが有力となってギリシア本土に勢力を伸ばしたが、アレクサンドロスの帝国、ヘレニズム時代も独立した小国家群として存続していた。前2世紀なかごろに、ローマに征服されるまで続いた。

 前404年ペロポネソス戦争はスパルタの勝利に終わり、アテネは海外領土のすべてを失い、海軍は接収され、デロス同盟は解体され、「アテネ帝国」は消滅した。
 その後のアテネには、スパルタ軍が駐留し、その後押しを受けた貴族寡頭政治である「三十人僭主」による政治が行われ、民主政維持を主張した人々は厳しく弾圧された。「三十人僭主」は翌年に倒れ、アテネ民主政が復活したが、それ以後の前4世紀のアテネおよびギリシアの諸ポリスには卓越した政治指導者は出現せず、一般的には衆愚政治と言われるポリスの衰退期に入るとされている。

民主政は一気に衰退したわけではない。

 しかしアテネ民主政が一気に消滅したのではなく、この時期にも弾劾裁判制度などが強化されており、それは必ずしも衆愚政と切り捨てるべきではなく、民主政の徹底、法治主義の理念の出現ととらえるべきことである。ポリス民主政を消滅させたのは、その内部的な腐敗と言うよりは、マケドニアという外部からの力によるものと考えるべきである。<橋場弦『丘のうえの民主政』1997 東大出版会>
※しかし、ペロポネソス戦争とその後のうち続くポリス間の戦争が、民主政の基盤である市民の生活基盤である農業や商工業を荒廃させ、かつての専制国家ペルシア帝国の攻撃をはねのけた重装歩兵として活躍した市民たちは没落し、新たな専制国家マケドニアの侵攻にはもはや抵抗する力が失われていたことも事実であろう。

ヘレニズム時代のポリス

 たしかにギリシアのポリスはアテネもスパルタも存続している。北方のマケドニアフィリッポス2世は、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベの連合軍を破ると、前337年にスパルタを除くギリシアのポリスをコリントス同盟を結成させた。ポリスが消滅したわけではなかった。マケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征に向かった後も、その自立の度合いは強くなり、ヘレニズム時代はアテネ、スパルタは独立を維持し、コリントなどはペロポネソス半島のポリス連合であるアカイア同盟を結成し、アンティゴノス朝のマケドニアやセレウコス朝シリア、さらにプトレマイオス朝のエジプトとも対抗した。コリントなどは東地中海での中継貿易で栄えていた。

ポリス民主政の終焉 ローマの地中海世界支配

 西方のイタリア半島の小都市国家であったローマは、共和政を実現しながら前4~前3世紀に半島統一戦争を展開し、さらに前264年から3次にわたるポエニ戦争で西地中海を制圧した。さらにローマは、前2世紀にその勢力を東地中海に及ぼし、マケドニア戦争でマケドニア王国を滅ぼした。それでもギリシアの諸ポリスは独立を維持していたが、前146年にはコリントがローマ軍に破壊された。アテネはなおも独立を保っていたものの、民主政治は衰え少数者による寡頭支配となった。前88年から前63年のミトリダテス戦争では小アジアのポントス王の呼びかけに応じ、反ローマの戦線に加わったが、スラの率いるローマ軍によって破壊された。このアテネの破壊が、古代ギリシアのポリス民主政の最後となった。