アントニウス
前1世紀、カエサルの部将で第2回三頭政治の一角を占めた人物。有能な軍人であったがクレオパトラと結んでエジプトに拠点を移し、オクタウィアヌスと対立、前31年、アクティウムの海戦で敗れて自殺した。
アントニウス Marcus Antonius (前82~前30年)は、ローマ共和政末期の内乱の1世紀に、カエサルのもっとも信頼の深い部将として活躍、ガリア遠征やポンペイウスとの戦いで功績を挙げた。前44年にカエサルが暗殺されると、その葬儀を取り仕切った。後継者と遺言されるのは自分であると確信をもったが、実はカエサルが指名した後継者は、カエサルの養子のオクタウィアヌスだった。
アントニウスとオクタウィアヌスは共同してマケドニアに逃れたカエサルの暗殺者ブルートゥスらを追撃し、前42年のフィリッピの戦いで彼らを討った。
キケロを自殺に追いこむ 三人の意見でまとまらなかったのがキケロの処遇だった。キケロは弁論家として名高く、共和主義者であったがカエサルには協力していた。すでに年老いていたがカエサル死後にアントニウスが権力を継承することに激しく反対し、論陣を張っていた。そこでアントニウスはキケロの追放を強く主張、オクタウィアヌスはキケロを弁護したが、三頭政治成立という政治的妥協を重視し、ついにキケロを追放リストに挙げることに合意した。オクタウィアヌスの変心を知ったキケロは、もはや自分の政治的生命もここまでとあきらめたか、ローマから脱出したが、アントニウスの派遣した捕り手に追いつめられ、自殺した。
クレオパトラはカエサルとのあいだにカエザリオンという男子をもうけ、エジプトのプトレマイオス朝の後継者とするつもりでいたが、カエサルの死後、あらたな後ろ盾を必要としアントニウスと結ぶことにしたのだった。アントニウスには本国に正妻のオクタウィアがいたが、クレオパトラとのあいだに三児をもうけるほどでローマを省みなくなった。オクタウィアは不平も言わず耐えていたというが、その弟のオクタウィアヌスは次第にアントニウスへの対決心を強めていったのであろう。
アクティウムの海戦 このオクタウィアヌスのローマ海軍とアントニウス・クレオパトラの指揮するエジプト海軍の決戦であるアクティウムの海戦は、機動力に勝るローマ海軍が、指揮系統もバラバラだったエジプト海軍を一方的に破った。アントニウスとクレオパトラは別れ別れになってアレクサンドリアに戻ったが、アントニウスはクレオパトラの裏切りを疑いながら、翌年アレクサンドリアで自殺した。クレオパトラは今度はオクタウィアヌスを籠絡しようとしたが失敗し、同じく自殺した。これによって、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、やがてエジプトはローマの属州とされ、オクタウィアヌスの覇権は地中海全域に及ぶこととなった。
第二回三頭政治
もくろみが外れたアントニウスはオクタウィアヌスと争ったが、元老院の支持がオクタウィアヌスにあるのを見て妥協し、同じ部将のレピドゥスを仲介にして、翌前43年に第2回三頭政治を成立させた。三人はいずれもカエサルの部下や系列であり、アントニウスはオクタウィアヌスの姉のオクタウィアと結婚し、両者は手を結ぶこととなった。第2回三頭政治は、第1回と同じく、元老院を抑えるための有力者間の妥協であった。この三者で勢力圏を分割した際、アントニウスは東方属州を与えられたため、エジプトの支配権を得た。アントニウスとオクタウィアヌスは共同してマケドニアに逃れたカエサルの暗殺者ブルートゥスらを追撃し、前42年のフィリッピの戦いで彼らを討った。
キケロを自殺に追いこむ 三人の意見でまとまらなかったのがキケロの処遇だった。キケロは弁論家として名高く、共和主義者であったがカエサルには協力していた。すでに年老いていたがカエサル死後にアントニウスが権力を継承することに激しく反対し、論陣を張っていた。そこでアントニウスはキケロの追放を強く主張、オクタウィアヌスはキケロを弁護したが、三頭政治成立という政治的妥協を重視し、ついにキケロを追放リストに挙げることに合意した。オクタウィアヌスの変心を知ったキケロは、もはや自分の政治的生命もここまでとあきらめたか、ローマから脱出したが、アントニウスの派遣した捕り手に追いつめられ、自殺した。
クレオパトラとの関係
アントニウスは東方遠征を行い、小アジアからシリアに転戦、さらにパルティアと戦った。苦戦が続くなか、プトレマイオス朝エジプトの支援を得ようとしてその女王クレオパトラ(7世)を小アジアのキリキアに呼び出し、会見した。その会見で彼女の虜となったアントニウスはエジプトに向かい、そのままアレクサンドリアにとどまってしまった。クレオパトラはカエサルとのあいだにカエザリオンという男子をもうけ、エジプトのプトレマイオス朝の後継者とするつもりでいたが、カエサルの死後、あらたな後ろ盾を必要としアントニウスと結ぶことにしたのだった。アントニウスには本国に正妻のオクタウィアがいたが、クレオパトラとのあいだに三児をもうけるほどでローマを省みなくなった。オクタウィアは不平も言わず耐えていたというが、その弟のオクタウィアヌスは次第にアントニウスへの対決心を強めていったのであろう。
Episode クレオパトラの虜になる
キリキアでの最初の会見のとき、クレオパトラは次のような姿でアントニウスの前に現れた。(引用)彼女はこの男を軽蔑し、嘲笑してから、艫(とも)を黄金で飾った船に乗ってキュドノス川を遡り、緋色の帆を張り、漕手は銀の櫂(かい)を笙と琴を伴奏とする笛の音に合わせ漕いだ。クレオパトラ自身は黄金をちりばめた天蓋の下に絵画にあるアフロディテのように着飾って腰をかけ、また絵画にあるエロスのようななりをした子供たちが両側に侍立して彼女を煽いでいた。……多くの薫香のかぐわしい香りが両岸に発散された。<プルタルコス/秀村欣二訳『英雄伝』下 アントニウス伝 ちくま学芸文庫 p.372-373>
Episode アントニウスとクレオパトラの釣
こうしてすっかりクレオパトラの虜になってしまったアントニウスは、あらゆることでその心を引き留めようとした。プルタルコスはこんな話を伝えている。(引用)ところでアントニウスが行なった子供じみた戯れの数々を述べてたてるのは全く無意味なことである。しかしある時、彼は釣をしたが、ついていず、クレオパトラがその場にいたので困って、漁夫たちに命じて水中に潜らせ、密かに彼の釣針に前に捕らえていた魚をつけさせ、二、三度釣り上げているうちに、このエジプト女に見破られてしまった。しかし彼女は感服したように見せかけ、友人たちにも吹聴し、翌日それを見にくるように招いた。そこで多くのものが釣舟に乗りこみ、アントニウスが釣糸を下ろすと、クレオパトラは自分の家来のひとりに命じ、先手をとって釣針のところに潜行し、黒海産の干魚をつけさせた。アントニウスは魚がかかったと思って引き上げると、案の定大笑いになったが、クレオパトラは言った。「インペラトル、あなたの釣棹は私の国のファロス(大灯台のこと)やカノボス(アレクサンドリアの東にある漁港)の王にお譲りなさい。あなたの釣の獲物は都市や王国や大陸なのですよ。」<プルタルコス『同上書』 p.377-378>
第二回三頭政治の破綻
アントニウスは前35~前34年にアルメニアを攻略し、その地を属州にすることに成功したが、前34年秋にアレクサンドリアでその凱旋式を行った。ローマではアントニウスがアレクサンドリアをローマの首都にするつもりなのか、という疑いの声が起こった。さらに、同年、アントニウスが自己の獲得した東方属州の要地をクレオパトラに寄贈することとしたことで、ローマにおけるアントニウスとクレオパトラに対する非難が高まった。さらに前32年、アントニウスがオクタウィアを離縁したことでオクタウィアヌスとの対立は決定的となった。すでにレピドゥスは前34年に失脚していたが、ここで正式に三頭政治は崩壊した。オクタウィアヌスとの戦いに敗れる
前31年、オクタウィアヌスはついにクレオパトラをローマの敵として宣戦布告した。同じローマ人であるアントニウスに対する名指しは避けたのだった。アントニウスとクレオパトラはすでにギリシアが戦場となると見て、始めはエフェソスに、後にはアテネに本陣をかまえた。アントニウスは陸戦での決戦を望んだが、エジプト海軍による戦いを主張したクレオパトラに押し切られ、9月2日、ギリシア西岸のアクティウム沖でローマ海軍を迎え撃つことになった。アクティウムの海戦 このオクタウィアヌスのローマ海軍とアントニウス・クレオパトラの指揮するエジプト海軍の決戦であるアクティウムの海戦は、機動力に勝るローマ海軍が、指揮系統もバラバラだったエジプト海軍を一方的に破った。アントニウスとクレオパトラは別れ別れになってアレクサンドリアに戻ったが、アントニウスはクレオパトラの裏切りを疑いながら、翌年アレクサンドリアで自殺した。クレオパトラは今度はオクタウィアヌスを籠絡しようとしたが失敗し、同じく自殺した。これによって、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、やがてエジプトはローマの属州とされ、オクタウィアヌスの覇権は地中海全域に及ぶこととなった。
Episode 激動のローマ史に咲いた一輪の花 オクタウィア
オクタウィアヌスの姉で、アントニウスの正妻となり、クレオパトラに惑わされたアントニウスに離縁されたオクタウィアという女性がいる。詳しい史実は判らないのであろうが、次のような想像力豊かな文も歴史家によって書かれている。(引用)共和政末期の最後の局面において、夫と弟の間で揺れ動いたオクタウィアの気持ちはどんなものであったのだろうか。彼女はなにも語っていない。しかし、伝えられたところでは、彼女はアントニウスの血が流れる子供のすべてを引きとって育てたという。自分の産んだ子はもちろんのこと、アントニウスの前妻とその子供も、そしてクレオパトラとの間に生まれた子供ですらも例外ではなかった。流血の激動期に一輪の花が咲くように、その美談は人の心を打つのである。<本村凌二『世界の歴史5/ギリシアとローマ』1997 中央公論新社 p.317>