カエサル
前1世紀、ローマ共和政末期に平民派の将軍として台頭、前60年、ポンペイウス、クラッススと共に三頭政治を行った。ガリア遠征で名声を挙げ、次いで元老院・ポンペイウスと対立して内戦に勝利し、前46年に独裁的な権力を握った。しかし、共和派によって前44年に暗殺された。『ガリア戦記』等の名文家としても知られる。
カエサル
→ 内乱の1世紀
カエサルの名前 ローマ人の名は、普通、三つからできている。カエサルで例をとると正式の名である ガイウス=ユリウス=カエサル Gaius Julius Caesar の一番最初のガイウスは個人の名で、日本でいえば一郎とか次郎とかにあたる。二番目のユリウスが氏、すなわち氏族の名であり、ローマではこれが極めて重い意味をもっていた。それはローマが氏族制社会だった最初の時期の、どの氏族に属すかを示すからである。第三番目のカエサルは家族の名、日本でいえば姓にあたる。したがってカエサルは日本風に言えば、ユリウス氏族のカエサル家のガイウス君、ということになる。ところが彼の名は歴史上、特別な意味をもつことになる。七月の July は、カエサルが腹心のアントニウスに提案させて、自分の生まれた月をに自分の氏の名をあてはめさせたものである。またカエサル(英語読みにすればシーザー)は、後に皇帝を意味する(カイザー、ツァーリなどに変形)ようになる。<長谷川博隆『カエサル』1994 講談社学術文庫 p.18>
カエサルの登場
名門ではあるが貧乏な貴族(パトリキ)の家に生まれた。生年には前100年と前102年の2説ある。禿げ上がった大きな頭と張り出たえら、口をへの字に曲げ下唇が突き出ていて、けして美男ではなかったが女性には人気があり、部下は「禿の女たらし」と呼んだという。マリウスの甥にあたり、また平民派キンナの娘コルネリアを妻としていたので平民派と見られた。一時は閥族派の大物、スラから離婚を命じられ、それを拒否したため不遇だった。スラ引退後、属州ヒスパニアの総督として財力を蓄え中央政界に復帰した。Episode カエサルの中にマリウスがいる
スラはまだ若いカエサルに将来のことに期待させたり、おどしたりして離婚を迫ったが拒否された。そこで一時は暗殺しようかとさえ考えた。ある人が「こんな年端もゆかない子供を殺す理由はないではないか」と忠告すると、スラは「この少年のうちにたくさんのマリウスのひそんでいるのが見えないのか」と言った。<この話はプルタルコスの『英雄伝』下(カエサル伝)P.172 やスエトニウスの『ローマ皇帝伝』上 p.13 に見られる。>Episode 若きカエサル、海賊を脅しつける
スラの言葉はカエサルの耳にも入ったので、しばらく身を隠したが、スラの部下に捕らえられてしまった。しかし捕り手を買収して釈放され、小アジアのビテュニアに亡命しようとした。その途中、地中海を荒らし回っていた海賊に捕まってしまった。海賊が身代金20タラントを要求したと聞いて、お前たちいったい誰を捕らえたと思っているのかとあざ笑い、自分から身代金を50タラントに引き上げた。その上海賊連中を小馬鹿にしてゲームの相手をさせたり、演説を聴かせたり、すっかり手なつけ、笑いながらこの次に遭ったら捕まえて縛り首にするぞ、と脅した。身代金と引き替えに解放されるとミレトスから船を出して海賊船を追いかけ、全員つかまえて、処刑してしまった。海賊は初めてカエサルの脅しが冗談でないことに気づいた。<この話はプルタルコスの『英雄伝』(カエサル伝)p.172-173 にくわしい。>平民派として台頭
スラが亡くなるとローマに戻ったカエサルを、元老院および閥族派は警戒し、平民派は期待の星として迎えた。カエサルは巧みな弁舌と、財力にものを言わせた買収によって急速に力をつけ、財務官・按察官・大神官を歴任した。例えば按察官の職にあった前65年には剣闘士試合を320組も提供し、そのほか見せ物・祭列・饗宴などの費用を負担して、法外な金を湯水のように使い、「その結果、民衆の一人一人が、カエサルに償いをつけるために、新しい官職とか新しい栄典を探してやりたいような気持ちをもつほどにさせられたのであった。」<プルタルコス『同上書』p.178>Episode カエサル夫人のスキャンダル
カエサルは最初の妻コルネリアを31歳の時に病で亡くし、33歳でスラの孫娘ポンペイアと結婚した。ところが、この女性は浮気性で、クローディウスという青年と密通、それが発覚したのでカエサルは38歳の時、ポンペイアを離婚した。しかしなんと相手のクローディウスには因果をふくめて自分の味方に引き入れてしまった。そしてカエサルが三番目の妻として迎えたのは、前59年、貴族出身の閥族派ピソの娘カルプルニアだった。この女性とは暗殺されるまで続いた。<二番目の妻ポンペイアの不倫については、漫画仕立てだが、『ユリウス・カエサル、世界の運命を握った男』を参照するとよい。>カエサルはエジプトの女王クレオパトラとも正式に結婚しているから、生涯に4回、結婚したことになる。
第1回三頭政治
カエサルはその時生じた巨額な借財を、富豪クラッススに支払ってもらい切り抜けることに成功した。さらに属州ヒスパニアの総督に任命されて現地で富を貯え、それを元手に執政官に立候補した。当時、クラッススと並んで勢力があったのが将軍としての名声の高いポンペイウスであった。この二人は、ともに元老院に反抗していたが、互いに対抗心をあらわにして不仲だった。カエサルは、自分が執政官となって元老院の権力に対抗して新しい政治を実現するには、この二人の対立を止めさせて不安定要素を除くことが必要と考え、二人を説得、前60年に第1回三頭政治(~49年)を成立させた。この三頭政治は、元老院に対抗するために有力三者が秘密裏に結成した私的な政治同盟と言うことができる。さらに翌年、カエサルは娘ユリアをポンペイウスに嫁がせ、関係を深くした。執政官カエサル 前59年、カエサルはポンペイウス、クラッススの支持を受けて初めて執政官に当選した。複数制なのでもう一人の執政官ビブルスがいたが、人々がカエサルだけがその地位にあるように感じるほど影が薄く、終いには家に引きこもってしまった。カエサルは土地をもたない兵士に公有地を分配する農地法を、カトー(大カトーの孫の小カトー)ら元老院の反対を押し切って成立させた。これはグラックス兄弟の改革で失敗した農地法をようやく成立させたという画期的意味もあるが、現実にはカエサルと新たに土地を与えられた兵士との親分・子分関係(クリエンテーラ)が強められるという結果ともなった。その他、カエサルは平民派としての政策だけでなく、元老院との協調も心がけたので、その政治は軌道に乗った。<長谷川博隆『カエサル』 講談社学術文庫 p.98>
Episode カエサル、日報問題を解決
執政官カエサルが行った改革の中で、元老院に関する、次のような注目すべきことが一つある。(引用)元老院が必死に妨害しようとすることをかれはよく承知していた。しかし、民会に直接法案を提出する方法はすでに実験済みであり、更に進んだ手も打っている。すなわち、元老院の会議内容を記録し、毎日逐一公表するよう強制したのである。こうして世界最初の新聞『日報』(アクタ・ディウルナ)が誕生、壁新聞だから購読無料である。元老院は、その威信の最大の源泉の一つである秘密性のヴェールを剝ぎ取られ、以後この打撃から永遠に立ち直れない。<モンタネッリ/藤村道郎訳『ローマの歴史』中公文庫 p.204>今も昔も、権力者は情報を隠蔽して「神秘性」を演出し、民衆を欺こうとしていた。元老院に「日報」の公開をさせたのは、さすが平民派の支持によって執政官となったカエサルだけのことはある。これを「世界最初の新聞」とまで言うのは言い過ぎかも知れないが、少なくとも現代の日本の権力者にとっても首筋が寒くなる話ではないだろうか。情報が公開されても肝心の部分が黒塗りだったりしたら、カエサルに一喝されるでしょう。
ガリア遠征
1年の執政官(コンスル)任期を終えた翌年、前58年から、カエサルはプロコンスル(コンスル代理)=属州ガリアの総督に任じられ、また全ガリアの軍事指揮権が与えられて、ガリア遠征を実行した。プロコンスルとはローマの外地で軍事指揮権をもち、命令権(インペリウム)も行使でき、その延長も認められる役職であった。カエサルにとって残る栄誉は将軍として外征軍を率い、勝利と領土と富をもたらすことであった。ガリアの地(ほぼ現在のフランス)の大半はローマの支配が及んでいず、ガリア人の部族間の争いが続き、さらにライン川の外からはゲルマン人がたびたび侵攻しており、その地を平定することはカエサルに大きな軍事力の基盤を与えることとなる。カエサルはガリア人部族の敵対的部族を次々と制圧し、その名声は急速に高まった。ルッカの会談 カエサルがガリアで戦勝を続けている間、ローマでは元老院議員の反カエサルの動きも強まり、彼らは三頭政治を分断するためポンペイウスを担ぎ出そうとした。ガリアでその動きを察知したカエサルは前56年4月、北イタリアのルッカでポンペイウス、クラッススと会談(ルッカの会談)し結束を強めた。そのときの合意は、ポンペイウスとクラッススを翌年の執政官に選出すること、執政官任期が終わったら、ポンペイウスにはヒスパニアの属州統治権、クラッススにはシリア遠征軍指揮権を与えること、そしてカエサルのガリアにおける指揮権を延長することであった。こうして三人は勢力圏を分割することで同盟関係を再構築した。
ライン川と英仏海峡を越える ガリアに戻ったカエサルはさらに征討活動を継続した。しかし、ローマとは異なる気候、遠征の長期化、ガリア人の抵抗などのため苦戦が続いた。さらに前55年にはゲルマン人がライン川を渡ってガリアに侵入したのを追い、はじめてラインを越えた。さらに同年、現在の英仏海峡を越えてブリテン島にも侵入した。これらの地には再度侵攻したが、結局支配を確立することはできなかった。
ガリアの平定 前52年にはカエサルのローマ軍にとって最大の危機となった、ガリア人の大反乱が起こった。それを指導したのはヴェルキンゲトリクスであり、その巧みな指導でカエサルは苦戦を強いられたが、アレシアの戦いでガリア連合軍を破り、ようやくガリアを平定することに成功した。
前58年から前50年までの9年間にわたって展開されたカエサルのガリア遠征で、ガリアの地はほぼ平定され、すべてが属州となってローマ化していく契機となった。カエサルはこの遠征の記録を自ら執筆し『ガリア戦記』として残しており、それは貴重な記録であると共にすぐれたラテン文学の作品としても知られている。<近山金次訳『ガリア戦記』岩波文庫/國原吉之助『ガリア戦記』講談社学術文庫 他>
カエサルの率いたローマ軍については、重装歩兵(ローマ)の項を参照。プルタルコスのカエサル伝ではカエサルをファビウスやスキピオ、マリウス、スラなどの将軍の業績と比較して占領した領地の広さや撃破した敵の数の多さ、捕虜に対する寛大な態度、従軍した兵士に対する報償なでいずれも優れていると述べた後に、次のようにも書かれている。
(引用)そればかりか、最も多くの戦闘を行なって、最もたくさんの敵を殺した点では、上記の人すべてに優っていた。すなわち、彼がガリアで戦ったのは十年にもならなかったのに、八百を超える都市を強襲して陥れ、三百もの部族を制圧し、いれかわりたちかわり三百万人の敵を相手どって堂々の陣を張り、そのうち百万人を白兵戦で殺戮し、なお別に同じ数の人を捕虜としたのである。<プルタルコス『英雄伝』下 カエサル伝/長谷川博隆訳 ちくま学芸文庫 p.192>
三頭政治の崩壊
カエサルのガリア遠征での軍事的成功はその名声を高めることとなり、一方、クラッススもそれに対抗して東方遠征に向かったが前53年、パルティアとの戦いで戦死してしまった。これによって三頭政治のバランスが崩れ、ローマに残ったポンペイウスは元老院と結び、独裁権を得ようと画策するようになった。前54年にカエサルの娘でポンペイウスと結婚したユリアが出産のために亡くなったことも両者の関係の冷却化を進めた。カエサルは軍を率いたままローマに帰り、再び執政官に立候補しようとしたが、元老院とポンペイウスはそれを認めようとしなかった。それを知ったカエサルは、前49年1月10日属州とローマ本土の境界線であるルビコン川を超え、軍を率いてイタリアに入った。Episode 「賽は投げられた!」と言ったか
カエサルは、ルビコン川をわたるとき、次のように兵士に呼びかけたという。(引用)「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」。<スエトニウス/國原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上 岩波文庫 p.41>これはスエトニウスが伝えているが、プルタルコスによると
(引用)底知れぬ深淵に崖から飛び込もうとする者のごとく、思案を停止し、恐ろしさには目を閉じて、周囲の者にギリシア語でただ一言、「骰子(さいころ)を投ぜよ」と叫んだまま、兵を渡河せしめた。<プルタルコス/吉村忠典訳『英雄伝』下 ポンペイウス伝 ちくま学芸文庫 p.145 同カエサル伝/長谷川博隆訳 p.219>となっている。「賽を投げろ」 はギリシア語の成句でラテン語では 'iacta alea esto' であるが、ルネサンスの大学者エラスムスは、スエトニウスのテクストで 'iacta alea est' (……投げられた)となったのは、末尾の o が写本伝本の過程で脱落したと考えた。つまりカエサルは「賽を投げろ」と言ったのだが、それが「賽は投げられた」とされてしまった、というのだ。これは妥当な推理であろう。<柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』2003 岩波文庫 p.35>
なお、ルビコン川とは現在の北イタリア、ラヴェンナとリミニの間に流れていた川で、属州ガリア=キサルピナとイタリア本土の境界とされていた。現在ではほんの小さな川となってしまっているという。
ローマの内乱
カエサル軍がローマに進軍を開始したことを知って、ポンペイウスと元老院はローマを放棄した。カエサルはギリシアに逃れたポンペイウスを追い、前48年8月9日、ギリシアのファルサロスの戦いで勝利した。ポンペイウスはなおもエジプトに逃れ、アレクサンドリアに上陸しようとしたが、プトレマイオス朝の王の部下はカエサルと有利な取り引きをしようと企んで、上陸用の小舟のなかでポンペイウスを殺害した。クレオパトラとの邂逅 ポンペイウスを追うカエサルはその4日後にアレクサンドリアに上陸した。当時プトレマイオス朝はプトレマイオス13世とその姉のクレオパトラが対立する内紛の渦中にあり、クレオパトラは絨毯にわが身をひそませてひそかにカエサルとの面会を遂げ、その機転によってカエサルの心をつかんで強く結ぶこととなった。
アレクサンドリア戦争 クレオパトラ反対派は海上から王宮を包囲して、二人を襲撃し、カエサルは苦戦に陥った。このアレクサンドリア戦争(前48年10月~前47年3月)では、エジプト海軍の艦船に火を放って逃れようとし、その火が市街地に飛び火してムセイオンが焼け落ちたといわれている。カエサルも海上に逃れようとして船から落ち、溺れそうになるなど苦戦を強いられたが、ポントス王などの派遣した援軍がアレキサンドリアに到着し、からくもエジプト軍を制圧した。前47年、カエサルはクレオパトラをもう一人の弟プトレマイオス14世と共同統治させるという形で復位させ、クレオパトラの求めに応じて正式に結婚した。二人は並んで豪華な船団を組み、ナイル川を遡上し、テーベでは古代のファラオの宮殿などを見て、オリエント的な専制君主の統治にふれることになった。やがて二人の間にはカエサリオンが生まれたが、ローマからの帰還要求も強まり、ようやく9ヶ月に及んだエジプト滞在を切り上げることとなった。
ポンペイウス派の掃討 ローマに帰還する途中でポントス王を討って小アジアを平定した。カエサルはローマに帰ったが、また各地にはポンペイウス派の残党が勢力を保っていた。そこでカエサルは、まずアフリカを拠点としていた保守派のカトー(大カトーの孫)を攻撃して自殺に追いこみ、さらにヒスパニアのポンペイウスの遺児らを討って、反対勢力の一掃に成功した。カエサルはこの経緯を自ら『内乱記』に記録している。<國原吉之助『内乱記』講談社学術文庫>
Episode 「来た、見た、勝った」
前47年8月2日、カエサルがエジプトからローマに戻る途中、小アジアのポントス王国のファルナケス王(かつてローマに反抗しミトリダテス戦争を起こした王の遺児)を破った。ゼラという町から、カエサルがローマにあてて書いた手紙の文句は「来た、見た、勝った。」だった。ラテン語では、Veni,Vidi,Vici. でVに始まり、iで終わる四文字からなる三語。これ以上簡潔にできない報告だった。<樺山紘一『ローマは一日にしてならず――世界史のことば』1985 岩波ジュニア新書 p.28>本来なら、かつて日報公表をカエサルに約束させられた元老院は、ここではもっと詳しい「日報」を提出せよ!と言わなければならないのだが、カエサルは隠蔽や改竄することなく、簡単明瞭な三語に要約し、これで文句ないだろう!というわけだ。当時の元老院はそんなカエサルに文句をつけるような力は既になかった。
カエサルの独裁政治
こうしてほぼすべての敵対勢力を平定したカエサルは、前46年7月、ローマに凱旋した。その時エジプトの女王クレオパトラ(正妻の手前、一緒には住まず、ティベル川の別邸に迎えた)とカエサリオンをローマに呼び寄せ、エジプトを支配下に入れたことも印象づけた。一方、それまで捕虜となっていたガリアのヴェルキンゲトリクスはローマを引き回した上で処刑した。ローマに凱旋すると同時に、圧倒的な軍事力を背景に10年間の独裁官(ディクタトル)に就任した。その後も元老院を有名無実化して、事実上の独裁政治を行ったが、その内政の主なのもには次のようなもので、いずれも都市共和政から帝国支配への転換をめざしたといえる。
- 海外に植民市を建設し、約8万人の遊民(無産市民)を入植させる。
- 穀物配分を32万人から15万人に削減する。
- 結社を禁止する。また牧場の労働者のうち3分の一は自由人であること。(奴隷反乱の防止)
- 混乱していた暦を改訂して、太陽暦(「ユリウス暦」)を制定した。
- ローマの都市計画の立案(実現せず)。
- 市民権の拡大。ガリア=キサルピナに一括してローマ市民権を与える。
- 属州民に市民権を与えてローマの正規軍に採用する。
皇帝への野望 カエサルはエジプトでプトレマイオス朝エジプトの統治に接し、オリエント風の専制君主への願望が生じたのかも知れない(その証拠はないが)。その前提としては、かつてクラッススを戦死に追いやったパルティアに復讐戦を挑み、それを征服することが必要である。それはかつてのアレクサンドロス大王の東方遠征の再現であり、そのアレクサンドロスの後継者のプトレマイオス朝女王クレオパトラからも託されたことであったのであろう。カエサルがパルティア遠征を計画し、準備を開始したことは確かであり、それに成功すれば、皇帝として世界に君臨することが可能となる。このことはティベル河畔の小さな都市国家であったローマの、元老院を柱とした共和政(その実態は貴族による寡頭共和政であるが)の伝統を守るべきであるという元老院議員たちにとっては避けなければならない事態であった。<クレオパトラについては、ブノア・メシャン/両角良彦訳『クレオパトラ』1979 みすず書房 を参照>
カエサル暗殺
前44年1月にカエサルは終身の独裁官の地位についた。 カエサルは権力の仕上げとして、今までのローマの将軍が誰もできなかったパルティア遠征、そしてアレクサンドロス大王も成し遂げられなかったインド征服まで構想し、それを実現した上で皇帝としておのれを神格化できると考えていたと思われる。このようなカエサルの野心があからさまになってきたことで、共和政の伝統を守ろうとする元老院の中に、強い危惧が生まれた。カエサル独裁反対派の暗殺団(その一人がブルートゥス)は周到に準備を重ねた上で、前44年3月15日、ついに元老院会議場でカエサルを襲撃し、暗殺を実行した。
いささか古い著述であるが、分かりやすい名文であると思うので引用する。
(引用)外面のはなやかさにひきかえ孤独だったシーザーは次第に君主政に惹かれていった。前44年の春・・・共和主義者の蛇蝎視した王(レクス)という称号が彼の心を占領した。「終身の独裁官」の称号を帯びた彼は、昔の王のように紫衣をまとい、金色の玉座についた。・・・残るは王の名と王冠だけである。2月15日のルペルカリアという昔からの祭に、民意打診の奇妙な演出が行われた。年中行事のうちとけた気分でフォルムに集まった民衆を前に、コンスルのアントニウスがうやうやしく王冠を捧げた。ところが予期された民衆の拍手は起こらなかった。カエサルはとっさの気転で王冠を辞してその場をつくろった。それから一ヶ月後・・・シーザーはイタリア内では独裁官、外では王となるという妥協案を出すつもりでいた。彼の着席するのを待って一人の嘆願者が進み出た。願いを容れられないで彼はシーザーの衣を捉えた。それを合図に、短剣をかざした人々がシーザーに襲いかかった。傷にひるまず身をかわして抵抗した彼も、ブルーツスを認めたときは顔を上衣でおおい、力尽きてポンペイウスの立像の下に倒れた。<秀村欣二『ギリシアとローマ』1961 世界の歴史2 中央公論社 p.317-318>
Episode 「ブルータスお前もか」
カエサルが暗殺団に殺害されたとき、その実行者の一人に対して「ブルータスおまえもか!」と言ったという話は有名だが、この暗殺事件を細かく伝えているプルタルコスの『英雄伝』カエサル伝には出てこない。スエトニウスの『ローマ皇帝伝』を見ると、このように書いてある。(引用)四方八方からおのれを目がけて抜身の剣の突きかかるのを見ると。カエサルは市民服で頭を覆い隠し、同時に左手で着物の襞を足の先までのばし、下半身をも包んでしまう。せめて死際の体面だけは保ちたいと願ったのである。こうして二十三個所を剣で突かれたが、最初の一撃にただ一度、呻いただけで、後は一声も発しなかった。もっともある伝えによると、襲ってきたマルクス・ブルトゥスに「お前もか、倅(せがれ)よ」と言ったという。<スエトニウス/國原吉之助『ローマ皇帝伝』上 岩波文庫 p.86>この「せがれよ」という意味は、訳者國原氏に拠れば、ギリシア語で伝えられており、それは「若憎」といったような意味合いだったという。また、ブルートゥスは前85年生まれで、カエサルはその時15歳、二人が父子と言うことは想像できないとしている<同上書 訳注 p.309>。 → ブルートゥスの項を参照。
カエサルの死後
前44年にカエサルが暗殺されると、元老院にはすでに統治能力が失われており、ギリシアに逃れたブルートゥスなどの共和派を倒した部将のアントニウスとカエサルの養子として指名されたオクタウィアヌスが力を強めた。二人は継承権を主張して対立したが、一旦は部将の一人レピドゥスを加えた第2回三頭政治が成立、対立は回避された。しかし、アントニウスがエジプトのクレオパトラと結んで東方で勢力を伸ばしたことで対立が再燃、前31年のアクティウムの海戦でオクタウィアヌスはアントニウスとクレオパトラの連合軍を破り、更に翌年アレクサンドリアを攻撃してクレオパトラが自殺、プトレマイオス朝エジプトを滅ぼした。その結果、権力を集中させたオクタウィアヌスは前27年にアウグストゥスの称号を贈られ、ローマ皇帝となり、ローマは共和政からローマ帝国に移行した。