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キケロ

前1世紀、共和政末期のローマの政治家、弁論家、哲学者。騎士階級出身の共和派の政治家としても活躍したが、アントニウスと対立し、前43年、暗殺された。ラテン語の名文家として知られ多くの著作を残した。

 マルクス=トゥリウス=キケロ Mrcus Tullius Cicero (前106~前43年)は、ローマ共和政の末期の「内乱の1世紀」時代の政治家でかつ雄弁家、文章家、哲学者として著名であった。地方の騎士(エクイテス)の家柄に生まれ、ローマに遊学、修辞学、哲学、法律を学び、弁護士として頭角を現す。さらにアテネ、小アジア、ロードス島に行き、ギリシア哲学を学びギリシア語文献をラテン語に訳すなど、素養を積んだ。ヘロドトスを「歴史の父」と呼んでローマに紹介したのもキケロであった。

Episode キケロの謂われはエンドウ豆

 キケロという家名はローマ人の中でも珍しいが、先祖の一人に、鼻の頭にエンドウ豆そっくりの凹みがあったので、ラテン語でエンドウ豆を意味するラケルからこの名が付いたらしい。彼が初めて官職についたとき友人たちはこの名を避けた方がいいと忠告したが、キケロは私はこの名前を有名にしてみせると言い張ったという。またシチリアの財務官だったとき神々に銀の器を奉納し、それにはマルクス(個人名)・トゥリウス(氏族名)に続けてエンドウ豆の絵を彫るよう職人に命じた。キケロという家名に誇りを持っていたようだ。<プルタルコス/風間喜代三訳『英雄伝』下 キケロ伝 ちくま学芸文庫 p.276>

内乱の1世紀

 前1世紀の前半、ローマ共和政は大きな転機を迎えていた。貴族(パトリキ)と新貴族(ノビレス)からなる門閥層は大土地所有(ラティフンディア)を経済的基盤とし、政治的には元老院議員として特権を維持しようとしたので閥族派(オプティマテス)と言われていた。それに対して、属州の徴税請負人などとなって経済力をつけてきた新興勢力である騎士階級は、元老院の既得権に挑戦するようになっていた。彼らは平民の発言の場である民会を基盤として活動したので平民派(ポプラレス)と言われた。平民派はマリウス、閥族派はスラに代表されるように、将軍としてミトリダテス戦争などの対外戦争やスパルタクスの反乱などの奴隷反乱の鎮圧に活躍し、私兵を蓄えて軍事力を背景に権力をめぐって争い、いずれもローマの市民大衆の支持を受けようと、人気取り政策を競い合っていた。キケロの時代は、スラの後継者であるポンペイウスクラッススが争い、そこに平民派の若手カエサルが食い込んでくる、という政治情勢だった。

騎士階級の立場

 キケロはまず弁護士としての活動から世に知られるようになり、前70年に属州シチリアの島民が総督ウェレスを告発したのを受けて、その不当な属州統治をきびしく弾劾し、有罪に追いこんだ。その裁判では、総督の下で島民から直接に税を徴収する徴税請負人の行動は不問に付されたが、徴税請負人になるのが騎士階級であった。
(引用)キケロは騎士身分と特別の関係をもっていた。彼はローマ騎士の家に生まれ、初めて市民の前にデビューしたときから、一貫して騎士身分の味方であり、元老院議員になってからも騎士身分の支持によって地位を高めてきた。したがって彼は、騎士身分を傷つけるような発言は避けたい立場にあったのである。<吉村忠典『古代ローマ帝国』1998 岩波新書 p.118>
カティリーナ陰謀事件 前63年、自らは貴族出身であったカティリーナは、不平貴族や下層民を煽動してクーデターによる権力奪取を謀った。彼は市民の全借財を即時棒引きするなどの政策で平民派の支持を得て執政官選挙に立候補した。キケロはその危機に気づき、対立候補として立候補し、巧みな弁舌で当選し、執政官(コンスル)に就任した。カティリーナは暗殺団を使ってキケロを殺そうとしたが失敗、キケロは元老院で有名な告発演説を行った。この裁判では若きカエサル一人だけが平民派を弁護したが、カティリーナは有罪とされ、その一派はローマを逃れて反乱を起こし、鎮圧された。

貴族と騎士の同盟

 カティリーナ陰謀事件を解決したことによってキケロの名声は高まった。キケロは、ローマ共和政の安定のために、元老院議員である貴族階級と新興有産者層である騎士階級が合同して、急進的な平民派による暴走を抑える「秩序のための同盟」を実現させてローマ共和政の危機を救ったと評価され「祖国の父」という称号を与えられた。

Episode 一家に二人の雄弁家は多すぎる。

(引用)富豪、広場(フォルム)の帝王、かつ「祖国の父」となったかれ(キケロ)にはなんの不足もないと見えた。だがもっとも大切なものが欠けていた。すなわち家族の平和。テレンティア夫人は才女であり、従って手に負えない悪妻だった。絶えず神経を昂らせ、ヒステリーを起こし、リューマチが痛いと叫んで夫をうんざりさせ、なおその上に夫に劣らぬ弁舌の持主だ。一家に二人の雄弁家は多すぎる。広場の王者も家では妻に論壇を譲った。妻はこの地位を利して何かにつけてがみがみ文句を言った。ついに別居を要求するが、キケロもさる者、彼女を離別し、たっぷり持参金のついたプブリアという娘と結婚。ところがこの新妻と娘トゥリアとの折合いがよくないと見てまたすぐに離婚した。娘への愛だけがかれの欲得ずくでない唯一の感情だった。<モンタネッリ/藤村道郎訳『ローマの歴史』中公文庫 p.196>

三頭政治には加わらず

 カティリーナ事件で名声を高めたキケロは、任期満了後も有能な弁護士として活躍した。当時の弁護士は謝礼を受けとることはできなかったが、顧客の遺言状に自分の名を遺産相続人として書き込ませるという手で、莫大な資産を獲得した。<モンタネッリ『同上書』p.196>
 しかし、その間も既得権維持を図る元老院議員と騎士階級の利害を代表するポンペイウスクラッススの関係は悪化、その中から登場したカエサルが前二者と手を組んで、元老院派を抑えるための第1回三頭政治を秘密裏に成立させた。キケロはその動きから疎外され、その「秩序のための同盟」も崩壊した。
 カエサルがガリア遠征に出かけた後、ローマで権勢をふるった護民官クロディウスは、共和政に忠実で清廉な政治家だったカトー(大カトーの孫)とキケロの排除を図り、前58年にキケロ追放法案が採択された結果、キケロはギリシアのテサロニカに亡命した。しかし翌年にはクロディウスが失脚、キケロもローマに帰還した。帰還後、キケロは三頭政治支持を表明したが、前52年のクラッススの戦死を機に三頭政治が崩壊し、残る二者ポンペイウスとカエサルの対立が表面化した。キケロは、ポンペイウス支持を明確にし、行動を共にしてローマを離れたが、前48年、ポンペイウスが敗れたため、政界を引退せざるを得なくなった。

アントニウスとの対立

 カエサルがローマの実権を握ると、キケロはカエサルとの関係を修復、協力した。このあたりのキケロの変節は、しばしば彼の節操の無さとして批判されている。これ以後は、カエサルの行う裁判をたすける一方、著作に明け暮れるようになった。カエサルが前44年、共和主義者ブルートゥスらによって暗殺されると、カエサルの部将アントニウスは、キケロは元老院派でブルートゥスと繋がっていたのではないかと疑い、関係は悪化した。キケロは元老院で、アントニウスを激しく攻撃、彼にはローマを統治する能力も正統性もないと激しく罵倒した。カエサルの養子オクタウィアヌスはキケロを擁護し、ローマは再び内戦状態になった。

第2回三頭政治の成立

 アントニウスの軍事的優勢が続くなか、オクタウィアヌスは事態の収拾のためには、アントニウスとの提携が必要と考えるようになった。前43年、レピドゥスを加えて対元老院などの利害で一致した三者が第2回三頭政治を成立させた。アントニウスは自分にとって好ましくない人物の「追放・死刑処分」リストを作成、その中にキケロを加えていた。オクタウィアヌスは反対したが、結局はアントニウスに同意した。こうしてオクタウィアヌスの保護も失ったキケロは政治生命が断たれたことになり、やむなくイタリアを離れ、ブルートゥスがいるマケドニアに向かおうとした。しかし、前43年、アントニウスが放った刺客がせまり、自殺に追いやられてしまった。64歳であった。

Episode 雄弁家、頭と手を切断される

(引用)キケロは駕籠に乗って、忠実な召使いたちに守られながら、逃げ道を求めて海岸へ向かった。しかし、すでにクィントゥス(弟)の解放奴隷のフィロログスの裏切りにより逃避行は発覚しており、森のなかで駕籠は捕らえられてしまう。追手の指揮官はヘレンニウスという名の百人隊長で、その昔、父親殺しのかどで告発されたところをキケロの弁護のおかげで助けられたことがある。彼が近づいてくるのを見るや、キケロは瞬(まじろ)ぎもせずにらみつけ、毅然としてみずからの命を絶った。ヘレンニウスは、アントニウスに命じられた通り、キケロの頭と両手を切断した。後にこれは戦勝記念として、フォルム(議場)の「船嘴(せんし)演壇」に掲げられた。この風習は、紀元前1世紀の初頭、激烈な内戦が繰り返された時に始められたものである。アントニウスは、キケロが居なくなった以上、「追放・死刑処分」はその所期の目的を果たしたと宣言し口を閉ざした。ひとり年老いた元執政官の雄弁により、彼の前に打ち勝ちがたい障害が生み出され、「自由」の存在はひとりキケロの雄弁に懸かっている、とアントニウスはひたすら信じ込んでいたのである。<ピエール・グリマル/高田康成訳『キケロ』1994 文庫クセジュ 白水社 p.121-122>

キケロの死の意味

 このようにみると、キケロの死は、内乱の1世紀の終わりでもあり、ローマ共和政の「自由」と「弁論」の時代の終わりでもあったことがよく判る。
君主政の構想 P.グリマルの『キケロ』によると、キケロはその著『国家論』において、ローマの政体には君主政的な機能を果たす機関が必要だと指摘しているという。ローマでは二人の執政官が王政的な権威を体現していたが、互いに拒否権を持つ二人の間で権力は分散・共有され、年の後半に翌年の候補が選出されてしまうと事実上の政治力を失ってしまう。ここに扇動家が現れ、恣意的に独裁し、執政官を操り人形化してしまう、という弱点があった。キケロはポンペイウスやカエサルに、単なる独裁者ではなく、徳と能力によって国を導く政治家を求めたが、裏切られた。そこで、「法律が実効をもって自由に機能することを保証する優位の権威」がなにがしかの形で制定されなければならないと考えた。キケロ死後に成立したオクタウィアヌス(アウグストゥス)の元首政(プリンキパトゥス)を、その構想が実現したものと見ることができるのではないだろうか。<ピエール・グリマル『同上書』 p.124>

文筆家としてキケロ

 政治的には波乱に富んだ一生であったが、その間残した著作『国家論』、『義務論』などはラテン語の散文として高い評価を得ている。また、多くの裁判における弁論や、手紙類も残されている。そのうち、『友情について』、『老年について』、『義務について』、『弁論家について』(上下)、『キケロー弁論集』、『キケロー書簡集』が岩波文庫で読むことができる。

ペトラルカによる復活

 キケロのラテン語の文章は、古典古代ローマ文化を代表するものとして、後の文学にも大きな影響を及ぼした。中世キリスト教世界では忘れ去られていたが、14世紀イタリアのルネサンスを代表する人文主義の詩人ペトラルカは、1345年にヴェローナで古文書の山からキケロの書簡を発見し、その人物像を明らかにした。キケロがローマ政治史の中の人物としてではなく、ローマのラテン文化を代表する人物であるとされるようになったのは、ルネサンス時代のペトラルカによる発見によってであった。