趙(戦国)
中国の戦国時代、七雄の一つ。都は邯鄲。山西省から河北省を支配。前222年に秦に滅ぼされた。
趙(ちょう)は、韓・魏とともに、春秋時代の有力諸侯であった晋の家臣であったが、前453年に韓氏・魏氏と協力して実権を握っていた知氏を倒し、事実上晋を三分することとなった。前403年に周王から諸侯であることを公認され、一般にこの時からを戦国時代とされている。
趙は華北の山西省北半から河北省東南部にかけて支配し、都は邯鄲(かんたん)におかれた。北方を異民族と接していたので軍備に力を入れ、次第に強国となって戦国の七雄に加えられるようになった。
趙の武霊王(在位前325~前299年)は前307年、「胡服騎射」という、匈奴の服装と騎馬の戦法を取り入れることを決意した。当時の中国の戦いの主流であった戦車戦は、戦車に御者と弓を引くもの、戈(ほこ)を持つものの三人が一組となって乗り、これが歩兵軍団を指揮して戦うものであった。戦車に騎乗するのは貴族であり、その働きが勝敗を決することが多かった。それにたいして武霊王が導入しようとした匈奴の戦法は騎兵を主体とするもので、騎兵は平民でも訓練さえ積めば強い戦闘力を発揮できるため、当時の貴族の立場を犯す危険性があった。司馬遷の『史記』趙世家では武霊王の胡服騎射導入に対して貴族たちが強く反対したことが物語られている。<沢田勲『冒頓単于』世界史リブレット 人14 2015 山川出版社>
武霊王の軍制改革で騎馬戦術を採り入れた趙は、前296年に東の中山国を征服した。しかし、秦の強大化はその後も続き、前260年には長平の戦いで秦に敗れ、捕虜になった40万の兵士が秦軍に坑埋めされて殺されるという敗北を喫した。その後、将軍李牧が現れて、よく匈奴や秦と戦ったが、両面からの軍事的圧力で国力を消耗させ、ついに秦王政(後の始皇帝)に攻められて、前222年に滅亡した。
最近の情報では、山西省高平県の付近の村で、多数の戦死者を葬った穴(尸骨坑)が発見されたという。詳細は不明であるが、長平の戦いの犠牲者を埋めたものという可能性がある。
長平の戦いに勝った秦は、翌年、趙の都の邯鄲を包囲した。邯鄲は1年あまりも包囲に耐え、ようやく韓・魏の援軍を得て陥落を免れた。白起は邯鄲を落とすことができなかったため昭王の怒りをかい、一兵卒の身分に落とされ、さらに剣を賜り自殺した(前257年)。秦の人びとは白起を悼み、祠を作って鎮魂したという。<尾形勇/平㔟隆郎『中華文明の誕生』世界の歴史2 1998初刊 中公文庫>
趙は華北の山西省北半から河北省東南部にかけて支配し、都は邯鄲(かんたん)におかれた。北方を異民族と接していたので軍備に力を入れ、次第に強国となって戦国の七雄に加えられるようになった。
騎馬戦法を採り入れる
戦国の七雄の中で秦が強大になると、東方の韓・魏・趙・斉・燕の5国は合従して(連合して)あたることになった。そのとき、連合国は秦を牽制するために、その北方にいた匈奴にも参戦を要請した。前318年のこの戦いは、連合国の内紛のため函谷関の戦いで秦軍に敗れてしまった。この時はじめて匈奴の存在が中国の歴史に登場した。趙の武霊王(在位前325~前299年)は前307年、「胡服騎射」という、匈奴の服装と騎馬の戦法を取り入れることを決意した。当時の中国の戦いの主流であった戦車戦は、戦車に御者と弓を引くもの、戈(ほこ)を持つものの三人が一組となって乗り、これが歩兵軍団を指揮して戦うものであった。戦車に騎乗するのは貴族であり、その働きが勝敗を決することが多かった。それにたいして武霊王が導入しようとした匈奴の戦法は騎兵を主体とするもので、騎兵は平民でも訓練さえ積めば強い戦闘力を発揮できるため、当時の貴族の立場を犯す危険性があった。司馬遷の『史記』趙世家では武霊王の胡服騎射導入に対して貴族たちが強く反対したことが物語られている。<沢田勲『冒頓単于』世界史リブレット 人14 2015 山川出版社>
武霊王の軍制改革で騎馬戦術を採り入れた趙は、前296年に東の中山国を征服した。しかし、秦の強大化はその後も続き、前260年には長平の戦いで秦に敗れ、捕虜になった40万の兵士が秦軍に坑埋めされて殺されるという敗北を喫した。その後、将軍李牧が現れて、よく匈奴や秦と戦ったが、両面からの軍事的圧力で国力を消耗させ、ついに秦王政(後の始皇帝)に攻められて、前222年に滅亡した。
Episode 邯鄲の夢
「邯鄲の夢」として知られる話は、趙の都邯鄲を舞台としている。邯鄲にやって来た盧生という青年は、偶然出合った呂翁という老人と、粟粥を煮ながら、自分の不遇を愚痴る。呂翁から夢が叶うという枕を与えられ、それを使ってみると、みるみる願いが叶い、立身出世をはたし、幸せな結婚もでき、王侯にまでなって一生を終える……というところで夢が覚めた。呂翁も目の前におり、粟粥はまだ煮上がっていなかった。ほんの一瞬の夢であったことを知った盧生は、すべての欲ははかないものであることに気づき、呂翁に礼を言って故郷に帰っていった。この話は唐の沈既済という人の小説『枕中記』にあるもので、日本でも「邯鄲の枕」とか「黄梁(粟粥のこと)の一炊」などとして知られており、能に採り入れられて『邯鄲』という演目で演じられている。また落語にも同じような話が多い。よく知られた『芝浜』も同系統の人情話である。長平の戦いで秦に敗れる
秦の昭王は将軍白起を用いて盛んに周辺諸国と戦い、勢力を拡大していた。趙は前260年、白起の率いる秦の大軍を長平(現在の山西省高平県)に迎え撃った。この長平の戦いは戦国時代の最大の決戦で重要な意味をもつ戦いとなった。7月、包囲された趙軍は食糧が尽き、46日の籠城によって、ついには人肉を食う有様となった。囲みを破ろうとしては撃破され、将軍趙括も戦死した。戦いはこれまでと観念した趙の兵士は次々と降伏、白起は許すとみせかけて生き埋めに、皆殺しにした。この戦いで斬首されたり捕虜になったものは45万といわれる。最近の情報では、山西省高平県の付近の村で、多数の戦死者を葬った穴(尸骨坑)が発見されたという。詳細は不明であるが、長平の戦いの犠牲者を埋めたものという可能性がある。
長平の戦いに勝った秦は、翌年、趙の都の邯鄲を包囲した。邯鄲は1年あまりも包囲に耐え、ようやく韓・魏の援軍を得て陥落を免れた。白起は邯鄲を落とすことができなかったため昭王の怒りをかい、一兵卒の身分に落とされ、さらに剣を賜り自殺した(前257年)。秦の人びとは白起を悼み、祠を作って鎮魂したという。<尾形勇/平㔟隆郎『中華文明の誕生』世界の歴史2 1998初刊 中公文庫>
Episoce 「白起豆腐」の恐ろしい記憶
「長平の戦い」のあった山西省高平県では、白起が40万といわれる投降兵を欺して皆殺しにして穴に埋めたことが、今でも恐ろしい記憶として残っている。この地の住民は、大豆から豆腐を作り、それを「白起豆腐」と称し、祭になると焼いたりすりつぶしたりして、「白起のはらわた」とか「白起ののうみそ」などといい、いまも腹いせにみんなで食べるのだという。白起の残虐行為は古代の戦争でもひときわ恐ろしいことだが、2200年近い昔の記憶がいまだに残っているというのも驚くべきことだ。<2022/1/13放送「空旅中国」による>