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魏(戦国)

中国の戦国時代、七雄の一つ。晋から分離し山西省から河南省にかけてを支配、前403年に諸侯となる。

 魏氏は春秋時代の有力諸侯の家臣であったが、前453年、韓氏・趙氏とともに晋を三分して自立し、さらに他のとともに、前403年に周王から諸侯であることを公認された。一般にこの時からを戦国時代とする。

戦国時代、最初の覇権

 戦国時代で最初に覇権を握ったのが魏の文侯(魏斯)であった。文侯は、孔子の弟子の系統にある李悝(りかい)を登用し、『法経』を制定させた。それまで中国の諸侯の法はすべて慣習法であったが、はじめて成文法が制定された。(残念ながら『法経』は現存していない。)また、諸子百家の一つ兵家呉起(呉子)を招いて軍を育成するなど富国強兵に努めた。
 魏は黄河中流域の山西省南部と河南省北部を支配し戦国の七雄の一つとされ、秦・斉と戦った。覇者ではなく「」を称した恵王であったが、前341年にとの馬陵の戦いに敗れ、覇権を失い、そのため中原(黄河中下流)の諸国も王を称するようになった。

秦の離間策

 魏の第6代(王を称してからは4代)の安釐(あんき)王のとき、上将軍となった信陵君は、前247年に強国秦に対する合従策を用い、魏・楚・趙・韓・燕の五国連合軍を率いて秦軍と戦って勝ったが、秦は信陵君が王位を狙っているという離間策を流し、王に疑われた信陵君は失脚した。これで秦は危機を脱したが、この年、秦王に即位した政が後の始皇帝である。その後の魏は衰退し、前225年、に滅ぼされる。<渡邉義浩『中国はいかにして統一されたか』世界史のリテラシー 2024 NHK出版 p.18,25>
注意 魏という名前の王朝 中国の歴史上、「魏」という名称の王朝は、この戦国時代の魏以外に重要なものが二つある。一つは三国時代(220年~265年)で、こちらは曹操の子の曹丕(文帝)が建てたので、「曹魏」という場合もある。もう一つは、鮮卑拓跋氏が386年に建てた魏で、こちらは一般に「北魏」(386~)といって区別している。北魏は534年に「東魏」と「西魏」に分裂した。日本の卑弥呼でおなじみの「魏志倭人伝」の魏は、三国時代の魏である。
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