戦車(古代)
馬にひかせた鉄製の二輪馬車を戦闘用に用いたもの。古代オリエントではエジプトに侵入したヒクソス、最初のオリエント統一を行ったアッシリア帝国などで用いられた。中国でも早くから戦車が用いられ、戦国時代に広く用いられた。
馬に車輪付きの乗り物をひかせ、兵士が乗って敵陣に切り込む戦車は、古代オリエント世界の戦争、中国の戦争など、ユーラシア東西の文明社会に共通で見られた。しかし、アメリカ新大陸の文明には車輪は知られていなかったので戦車は現れなかった。戦車、つまり戦闘用二輪馬車の起源はユーラシア内陸のいずれかであろうが、あきらかではない。車輪の出現は紀元前3000年頃のメソポタミアから、とされているが、馬に車輪を引かせるのはおそらく中央アジアに始まり、西アジアにもたらしたのは前1700年頃のヒクソスから、と思われる。
オリエント世界で鉄製の戦車がはっきりと現れるのは、紀元前18世紀にエジプトに侵入したヒクソスである。その後、ヒクソスを撃退したエジプト新王国でも盛んに使われるようになった。前16世紀から前12世紀までバビロニアを支配したカッシート(民族系統は不明)がメソポタミアで戦車の使用を拡げ、さらに東方ではインドに侵入したアーリヤ人が戦車を使っていた。そしてオリエント世界で最もよく鉄製の戦車を用いたのはアッシリアだった。こうしてオリエント諸国の抗争の中で主要な戦術として戦車が広く用いられるようになった。
歴史上、車戦の民(戦車を用いた民族)は、紀元前2千年紀にヒクソス、カッシート、アーリアなどでそれはインドおよび、ドナウ地方を経てギリシア・ローマへのとひろがった。そこには戦車の形態、馬匹の種類、戦車の神々への信仰などで一致しており、「戦車を中心とする一大民族=文化移動のあらわれであることを示す」。ところが前12世紀を境にして革命が起こり、オリエントにおいてもヨーロッパにおいても騎兵が出現する。これはアジア内陸の騎馬遊牧民による騎乗、とくに騎戦と接触したために起こった変化である。イラン人、トラキア人、ゲルマン人、ケルト人らはそれを取り入れ、騎乗用ズボンが用いられるようになったが、ギリシア人、ローマ人など戦車を固執した民族にはそれが伝わらなかった。中国は、戦いに戦車を使う民族であったが、そこにも騎馬の文化の影響が現れ、車戦から騎馬戦への移行が見られる。石田氏の論考はさらに、武帝が張騫を派遣して得ようとした大宛の「天馬」が、どのような文化的広がりを持っていたのか、詳しく述べている。<石田英一郎『桃太郎の母』1956 法政大学出版会 2007 講談社学術文庫再刊>
前14~13世紀(日本では一般に殷の時代とされる)に、二頭立ての馬車の遺物が多数発掘されている。これら馬車の車軸は3mはあるが、前2千年紀までの都市の城門はいずれも2.5mまでしかないので、このような馬車は使われなかったと思われる。この頃の馬車は飾りは青銅だが車軸・車体は木製で、傘や屋根、飾りをつけた貴人の乗物だった。<林巳奈夫『中国古代の生活史』2009 吉川弘文館 p.93-99>
戦国時代に中国も鉄器時代に入り、鉄製の戦車も用いられるようになった。戦車が戦争の主要な武器となったことは、漢字の「軍」が戦車の集合体を表していることからも容易に考えられる。中原で覇を競った諸侯たちは、いかに戦車をうまく使うかに苦心したに違いない。戦車には、御者と兵士を従えた貴族の三人が一組となって乗り、これが歩兵を指揮して戦った。このころまで、漢民族の戦争では専ら戦車が用いられ、その優劣が戦いの勝敗を決め、それを操った者が貴族としての地位を占めた。
戦国の七雄の一つ、趙の武霊王は、前307年、西方の強国秦と戦うため、北方の匈奴と結び、その騎馬の戦法を取り入れることとした。これが、中国での戦車戦から騎馬戦への転換のきっかけだったという。趙は結局、秦に破れ、秦の始皇帝による統一が達成されるが、そこのころになると戦闘の主力は戦車ではなく騎馬になっていった。戦車が使われなくなることは、それを操る貴族の立場が弱くなり、戦闘の主役となった平民が騎兵として台頭するという社会変動をももたらした。 → 秦の始皇帝の兵馬俑
オリエントでの戦車の登場
紀元前3千年期のシュメール人の建設した都市国家であるウルで発見された「ウルの軍旗」と言われる遺物には馬らしき動物に曳かせた車付きの乗物の絵があるが、この動物が馬であるかどうかは説が分かれ、またこの段階は青銅器文明なので、後のような鉄製の戦車とは言えないと考えられている。オリエント世界で鉄製の戦車がはっきりと現れるのは、紀元前18世紀にエジプトに侵入したヒクソスである。その後、ヒクソスを撃退したエジプト新王国でも盛んに使われるようになった。前16世紀から前12世紀までバビロニアを支配したカッシート(民族系統は不明)がメソポタミアで戦車の使用を拡げ、さらに東方ではインドに侵入したアーリヤ人が戦車を使っていた。そしてオリエント世界で最もよく鉄製の戦車を用いたのはアッシリアだった。こうしてオリエント諸国の抗争の中で主要な戦術として戦車が広く用いられるようになった。
アッシリアで発達
アッシリアの戦車ははじめ馬二頭にひかせる二人乗りの二輪車であった。後に三頭びき三人乗りに改造され、さらに機動力と戦闘力を増し、オリエントの統一に大きな力となった。アッシリア人は鉄製の戦車と騎兵隊という軍事力を有し、前7世紀にオリエント世界を統一してアッシリア帝国を成立させた。全盛期の王アッシュール=バニパル王のレリーフには王が戦車に乗って獅子狩りをしている図を見ることができる。また、騎兵隊の誕生も、アッシリア王アッシュール=ナシル=バル二世(在位前884~859)の時代だったと言われる。 → 現代の戦車(引用)前15世紀から14世紀にかけて、オリエントのどこかで、戦車の設計に注目すべき変化が生じた。それはそれまで車台の中心にあった車軸が、車台の後縁に移されたことで、それによって御者はバランスをとりやすくなり、馬の気管も締め付けずにすむようになった。このオリエントの戦車は、ミケーネ文明を経てギリシア・ローマに伝えられた。<平田寛『失われた動力文化』1976 岩波新書 p.92、p.95による。>ローマ帝国では、馬車は戦場での将軍たちの乗物、戦闘用の戦車として発展した。競技場で戦士による戦車競走が華々しく行われていた様子は、映画『ベンハー』でおなじみである。都ローマと各地の軍団を結ぶ道路は、戦車が迅速に走れるように舗装された。現在にその姿をとどめるのがアッピア街道である。
参考 車戦の民と騎戦の民
馬を使って戦うやりかたに、車戦(戦車で戦う)と騎戦(馬に乗って戦う)の違いがあり、それが民族文化の違いに現れているという興味深い考察がある。日本の文化人類学(初めは比較民族学などと言われていた)の草分けの一人石田英一郎が1948年に発表した「天馬の道」(後に『桃太郎の母』に収録)である。歴史上、車戦の民(戦車を用いた民族)は、紀元前2千年紀にヒクソス、カッシート、アーリアなどでそれはインドおよび、ドナウ地方を経てギリシア・ローマへのとひろがった。そこには戦車の形態、馬匹の種類、戦車の神々への信仰などで一致しており、「戦車を中心とする一大民族=文化移動のあらわれであることを示す」。ところが前12世紀を境にして革命が起こり、オリエントにおいてもヨーロッパにおいても騎兵が出現する。これはアジア内陸の騎馬遊牧民による騎乗、とくに騎戦と接触したために起こった変化である。イラン人、トラキア人、ゲルマン人、ケルト人らはそれを取り入れ、騎乗用ズボンが用いられるようになったが、ギリシア人、ローマ人など戦車を固執した民族にはそれが伝わらなかった。中国は、戦いに戦車を使う民族であったが、そこにも騎馬の文化の影響が現れ、車戦から騎馬戦への移行が見られる。石田氏の論考はさらに、武帝が張騫を派遣して得ようとした大宛の「天馬」が、どのような文化的広がりを持っていたのか、詳しく述べている。<石田英一郎『桃太郎の母』1956 法政大学出版会 2007 講談社学術文庫再刊>
中国の馬車
中国で運搬用の車がいつ作られたか不明であるが、前3千年紀の遅い時期に製陶にろくろが使われるようになったことが土器の形状から知られる。ろくろは円形の木の板の下に軸を付けて回転させるので、それを横にすれば車になる。そう考えればそのころ車が生まれたとはありえるが、今のとこもまだ遺物や図像での確証は得られていない。前14~13世紀(日本では一般に殷の時代とされる)に、二頭立ての馬車の遺物が多数発掘されている。これら馬車の車軸は3mはあるが、前2千年紀までの都市の城門はいずれも2.5mまでしかないので、このような馬車は使われなかったと思われる。この頃の馬車は飾りは青銅だが車軸・車体は木製で、傘や屋根、飾りをつけた貴人の乗物だった。<林巳奈夫『中国古代の生活史』2009 吉川弘文館 p.93-99>
戦国時代に中国も鉄器時代に入り、鉄製の戦車も用いられるようになった。戦車が戦争の主要な武器となったことは、漢字の「軍」が戦車の集合体を表していることからも容易に考えられる。中原で覇を競った諸侯たちは、いかに戦車をうまく使うかに苦心したに違いない。戦車には、御者と兵士を従えた貴族の三人が一組となって乗り、これが歩兵を指揮して戦った。このころまで、漢民族の戦争では専ら戦車が用いられ、その優劣が戦いの勝敗を決め、それを操った者が貴族としての地位を占めた。
戦車戦から騎馬戦へ
ところが前12世紀ごろから次第に活発になった北方の騎馬遊牧民は、戦車は用いず、専ら騎馬のみで戦った。騎馬のみで戦う方が、戦車よりも速く、機敏に動けるのは言うまでもないことで、北方民族の侵攻が激しくなるに従い、戦車戦から騎馬戦へと戦争形態が変化していった。戦国の七雄の一つ、趙の武霊王は、前307年、西方の強国秦と戦うため、北方の匈奴と結び、その騎馬の戦法を取り入れることとした。これが、中国での戦車戦から騎馬戦への転換のきっかけだったという。趙は結局、秦に破れ、秦の始皇帝による統一が達成されるが、そこのころになると戦闘の主力は戦車ではなく騎馬になっていった。戦車が使われなくなることは、それを操る貴族の立場が弱くなり、戦闘の主役となった平民が騎兵として台頭するという社会変動をももたらした。 → 秦の始皇帝の兵馬俑