アステカ王国
14世紀に成立したアステカ文明期の王国。テノチティトランを都に、15世紀にメキシコ高原一帯を支配したが、1521年にスペインのコルテスによって滅ぼされた。
チチメカ人の一派であるアステカ族(またはメシカ人ともいう)の建てた王国で、アステカ文明を成立させた。メキシコ高原のテスココ湖に浮かぶ島に建設したテノチティトランを都とし、周辺の部族を次々と征服して支配領域を広げ、一個の都市帝国をつくった。
アステカ王国の成立
伝承に拠れば、彼らは1325年にメキシコ中央高原のテスココ湖の中の小島に移り住み、テノチティトランの町を築いた。初めは有力なテパネカ族に服属していたが、15世紀の前半のイツコアトル王のとき独立し、1469年まで統治したモクテスマ1世の時に周辺のベラクルス地方やアオハカ地方を征服し、帝国をつくった。16世紀の初め、スペイン人が現れた頃のアステカ王国は、現在のメキシコ高原一帯に、イタリアと同じぐらいの広さの領土を支配していた。アステカ王国の政治と戦争
皇帝と頂点とし、祭祀と軍事を担当する貴族がその政治を支えた。皇帝はウイツィロポチトリの最高の祭司であり、軍隊の長であるが、世襲制ではなく選挙で選ばれた。しかし初代以来常に同一の家系から選ばれていた。皇帝は太陽神の司祭であるが、太陽神は夜の間姿を消し、翌日のために精力をつけなければならない。太陽の好んだ唯一の栄養分は人間の生き血であるとされていたので、アステカの皇帝は常に人身犠供のための捕虜をえるために戦争を続けなければならなかった。それだけアステカ王国には敵も多かったと言える。<以上、メキシコ大学院大学『メキシコの歴史』1978 新潮選書 p.60-69> → アステカ王国の滅亡アステカ王国の滅亡
16世紀初め、メキシコの地にあったインディオのアステカ王国は、スペインのコルテスによって征服され、滅亡した。
古代のマヤ文明が存在し、また15世紀にはアステカ王国が繁栄していた現在のメキシコ一帯に、スペイン人が最初に侵入したのは1517年であった。コロンブスは第4回航海でユカタン半島沿岸を探検し、途中海上でマヤ人と遭遇しているが、その地には上陸しなかった。その後、エスパニョーラ島、キューバ島に入植したスペイン人は、さらに東洋に抜ける海路を見つけるために、さかんに海上探索を行った。そのひとつエルナンデス=コルドバの率いる遠征隊が1517年にメキシコに初めて上陸して、翌18年から入植が始まった。この広大な入植地をスペイン人は、ヌエバ=エスパーニャ(新しいスペイン)と呼んだ。
翌1521年、コルテスは、インディオの反アステカ勢力(トラスカラ人)を味方に付け、火器と騎兵で武装してテノチティトランを攻撃した。反アステカのインディオを含め、コルテスの軍勢は総勢10万にのぼった。国王以下、アステカ人はよく戦い、約3ヶ月にわたり抵抗したが、ついに敗れ、3万の命と共にアステカ王国は滅亡した。
アステカ王国は周辺先住民に過酷な税を課して服従させていたので、スペイン軍がテノチティトランを攻撃したとき、帝国の圧政に呻吟していた周辺諸民族もスペイン軍に加わって戦った。その兵力が加わったのでコルテス勢は大軍になり、アステカ王国軍に勝てたのだった。さらに、アステカ王国に従属しながらも常に独立を企てようとしていたトラスカラ人などが、過酷な納税制度に耐えられず王国に反旗をひるがえしたこともコルテス軍が膨大な数になった原因である。また、スペイン人によって疫病がもたらされ、特に天然痘が免疫がなかったアステカの戦士に感染し、戦力が低下したのもアステカ王国の敗北の一因である。アステカ人の循環史観に影響されたモクテスマ2世が戦意を喪失したことも、敗北を招いた原因から排除できない。3ヶ月におよぶ湖上の都テノチティトランの包囲戦でも降服しなかったため、都に入城したスペイン軍はアステカ人を3万人も大虐殺したといわれている。<大垣貴志郎『物語メキシコの歴史』2008 中公新書 p.34 より要約>
※メキシコのインディオ人口の減少については、コルテス以前に2500万人あまりだったのが、わずか50年間で100万人に激減した、という数字が上げられている。<鶴見直弘・遅塚忠躬『世界史B』実教出版 2003 p.168>
コルテスによる征服
さらに征服者(コンキスタドール)、コルテスは1519年、スペイン国王カルロス1世の承認のもと、キューバから大陸に上陸して最初の植民都市としてベラクルスを建設し、さらに内陸の都テノチティトランに向かった。1520年、アステカ王モクテスマ2世は初めて見る白人の騎兵に驚き、戦わずに恭順の意を表し、カルロス1世に財宝を献上した。Episode 分配された黄金
アステカ国王モクテスマ2世からカルロス1世に献上された財宝を見て驚いたコルテスは、各地に人を派遣して貴金属や工芸品を集め、略奪した。1520年10月30日付の報告書間によるとカルロス1世の取り分は3万2400ペソの金塊と10万ドゥカード(約17万8千ペソ)相当の工芸品だった。しかしコルテスの部下の告白によると実際にはもっと多く、その3分の1はコルテスとその一派がくすねて隠匿したという。真実の数字は判らないが、アステカの財宝は溶解されて金塊となり、国王が5分の1、コルテスに5分の1,その他は船乗りや聖職者の俸給、征服に要した馬や武具の代金などに充てられ、残りはキューバ総督など事業への出資者に分配された。しかし末端の兵士に渡った分配金はわずか100ペソで、不満が残ったという。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.10-11>アステカ人の反撃と滅亡
モクテスマ2世の後を継いだクアウテモクは、スペイン人に反撃を試みた。1520年6月30日の夜、王自らアステカ人を率いて猛反撃に転じ、コルテス以下のスペイン人はテノチティトランから撤退、数百人が殺され、奪った財宝と共にテスココ湖に沈んだ。翌1521年、コルテスは、インディオの反アステカ勢力(トラスカラ人)を味方に付け、火器と騎兵で武装してテノチティトランを攻撃した。反アステカのインディオを含め、コルテスの軍勢は総勢10万にのぼった。国王以下、アステカ人はよく戦い、約3ヶ月にわたり抵抗したが、ついに敗れ、3万の命と共にアステカ王国は滅亡した。
滅亡の原因
スペインの征服者はわずかな兵力と火器・騎兵の戦力でアステカ王国を「かんたんに」征服したような印象をあたえる記述があるが、テノチティトランでの戦いは壮絶なものがあり、けして簡単だったのではなく、またアステカ王国が敗れたのもスペインの近代兵器に屈したからではなかった。アステカ王国は周辺先住民に過酷な税を課して服従させていたので、スペイン軍がテノチティトランを攻撃したとき、帝国の圧政に呻吟していた周辺諸民族もスペイン軍に加わって戦った。その兵力が加わったのでコルテス勢は大軍になり、アステカ王国軍に勝てたのだった。さらに、アステカ王国に従属しながらも常に独立を企てようとしていたトラスカラ人などが、過酷な納税制度に耐えられず王国に反旗をひるがえしたこともコルテス軍が膨大な数になった原因である。また、スペイン人によって疫病がもたらされ、特に天然痘が免疫がなかったアステカの戦士に感染し、戦力が低下したのもアステカ王国の敗北の一因である。アステカ人の循環史観に影響されたモクテスマ2世が戦意を喪失したことも、敗北を招いた原因から排除できない。3ヶ月におよぶ湖上の都テノチティトランの包囲戦でも降服しなかったため、都に入城したスペイン軍はアステカ人を3万人も大虐殺したといわれている。<大垣貴志郎『物語メキシコの歴史』2008 中公新書 p.34 より要約>
インディオ人口の減少
スペインの宣教師ラス=カサスはその著『インディアスの破壊についての簡潔な報告』1542年に、1518年から今日に至るまでのスペイン人征服者の残虐行為によって約400万のインディオが犠牲になったと延べ、征服者は「人類の最大の敵」とまで言って、激しく非難している。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.61>※メキシコのインディオ人口の減少については、コルテス以前に2500万人あまりだったのが、わずか50年間で100万人に激減した、という数字が上げられている。<鶴見直弘・遅塚忠躬『世界史B』実教出版 2003 p.168>
天然痘とアステカ王国の滅亡
アステカ王国の滅亡は、コロンブス以来、ヨーロッパから新大陸にもたらされた感染症である天然痘が、免疫のないインディオにもたらされ、大流行したという背景があった。(引用)最初の遭遇は1518年だった。天然痘がエスパニョーラ島に到達し、インディオ住民に激しく襲いかかった。バルトロメ=デ=ラス=カサスの信じたところによれば、生存者はわずか千人に過ぎなかった。イスパニョーラ島から、天然痘はメキシコに向かい、1520年に上陸した。沿岸部にいたコルテスのトラクスカラン同盟と、コルテスを追い払った側のインディオの双方に打撃を与えた。だが、この病気が地上をどのように移っていったかについてはとても再構成することなどできない。それにしても、コルテスが退却を余儀なくされてからほぼ四ヶ月後に首都テノチティトランでこの病気が突発したという事実は、まさにスペイン人を襲撃した者たちへの神罰と見なさないわけにはいかなかった。その結果、コルテスがメキシコ中央部に戻ってきたとき、チチカカ湖の周辺に住んでいた諸部族はみな彼の味方となることを決意した。これは重要な点である。コルテスのスペイン軍は僅かな数だったし、沿岸部のインディオの同盟軍といっても、テノチティトランを、首都に食糧を供給していた周囲の諸共同体から孤立させるには、軍勢の数が不十分だったからである。だからひとたび湖水周辺の臣下たちに裏切られたとき、アステカ人の運命は決まったようなものだった。彼らの抵抗がいかに勇猛で、自殺を目指しているほどのものだったとしてもである。<マクニール/佐々木昭夫訳『疫病と世界史』下 2007 中公文庫 p.91-92>続けてマクニールは「もし天然痘があのとき突発しなかったならば、コルテスの勝利はもっと困難、いや不可能だったろう。ピサロのペルー侵略についても同じことが言える」と結論づけている。