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大乗仏教

クシャーナ朝時代に生まれた新しい仏教理念。広く衆生を救済しようとする仏教思想であり、中国、朝鮮、日本に広がった。

 ガウタマ=シッダールタ(ブッダ、シャカ)の創始した仏教は、その死後100年ほどたってから、さまざまな部派仏教に分かれたが、その中で主流となったのは長老たちが守っていた上座部仏教であった。それに対して、大衆部といわれる一般僧侶に多い革新派も生まれてきた。彼らはさらに分派を重ね、二〇の部派に分かれることとなった。部派仏教の僧侶たちは、アショーカ王などの権力に保護され、僧院の中で互いの部派との論争に明け暮れ、しだいに民衆の信仰から離れて、貴族的な学問仏教になっていった。

大乗仏教の運動

 紀元前後に、インドの北西部で新しい仏教の信仰のあり方が求められるようになった。それは部派仏教が出家による自己救済を主眼とし、民衆の信仰から離れてしまったことを批判し、広く大衆(衆生)の救済をめざす運動であった。そこでは、他者のために苦しい修行をするする修行者を菩薩として信仰する菩薩信仰が広がり、また出家せずに在家のままで信仰することも認められた。この新しい仏教は紀元後1世紀に成立したクシャーナ朝の保護を受けて盛んになり、その運動は自らの仏教を大乗仏教と称した。
 1世紀ごろ、大乗仏教の成立に伴い、それまでの偶像崇拝の否定は弱まり、ヘレニズムの影響を受けたガンダーラ地方などで、釈迦の偉大さを実体化して釈迦像としたり、その優れた多方面の性格をさまざまな如来像や菩薩像として表現して信仰、崇拝の対象とする仏像彫刻が生まれた。大乗仏教は仏像と共に中国や朝鮮、そして日本へと伝えられていった。

大乗の意味

 大乗・小乗の「乗」とは乗り物のことで、涅槃(悟りの境地、ニルヴァーナ)に至る手段としてどのような方法をとるかという見解の相違を意味している。「大乗(マハーヤーナ)」とは「大きな乗り物」の意味となり、ブッダの教えに従って出家し悟りをひらくことは自分一人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという思想である。それに対して、上座部仏教に代表される部派仏教は、小乗仏教と蔑称された。

大乗仏教の成立

 本来の原始仏教で仏弟子となって出家するのは自分自身の煩悩を払い、自分自身の解脱を求めるのもであったので、伝統的・保守的な長老たちは大乗仏教の思想をブッダの教えを拡大解釈するものとして否定した。それに飽き足らない改革派グループは長老たち(上座部)の考えを、人を救済することの出来ない「小さな乗り物」、つまり「小乗」であると非難し、自分たちの思想を「大乗」と称した。この思想の違いはすでに第2回結集の時に始まっていたが、クシャーナ朝の時代に仏教の中心がインドの西北に移ったことを背景に、大乗仏教が成立することとなった。その理論を大成したのが2世紀中ごろ、デカンで活動したナーガールジュナ(竜樹)である。

サンスクリットの経典

 なお、大乗仏教は古代インドの標準語とされるサンスクリット語で書かれている。それに対して小乗仏教(上座部仏教)は俗語であるパーリ語が用いられている。サンスクリットは俗語に比べれば難解であるが、大乗仏教では大衆の救済のために優れた人物が出家すると考えられたので、経典も難解なものでもよかったのであろう。古い仏教である小乗仏教では、信者はすべて出家する必要があったので、誰にでも理解できるパーリ語経典が用いられたと考えられる。

大乗仏教の広がりと変質

 この大乗仏教は中央アジアを経て中国、朝鮮、日本に伝えられることとなる(いわゆる北伝仏教)。インドでの大乗仏教はグプタ朝時代・ヴァルダナ朝の時代と続いて保護を受けたが、民衆にはむしろ古来の民間信仰を継承したヒンドゥー教が強まっていった。大乗仏教も6世紀ごろからヒンドゥー教の影響を受けて、密教化していく。12世紀以降の本格的なイスラーム教の浸透は、インドにおける大乗仏教の衰退を決定づけることになる。また大乗仏教は中国に入って中国仏教として定着し、特に玄奘義浄によって多くの仏典が漢訳されて唐の仏教が興隆した。しかし、次第にインド仏教的な要素は弱くなり、浄土宗禅宗が盛んになった。特に禅宗は、宋代に他の仏教諸派が衰微したにもかかわらず、士大夫層の文化を支える要素として全盛期を迎え、日本の鎌倉仏教に大きな影響を与えた。
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