遊牧国家
遊牧民がつくった国家。世界史上、中央ユーラシアの草原地帯に、匈奴帝国、突厥帝国、モンゴル帝国など巨大な騎馬民族国家が形成されたほか、さまざまな部族的国家も生まれた。彼らは周辺の農耕地帯やオアシス地帯の農耕民をしばしば支配するとともに、広範な商業ルートも支配した。
ユーラシア大陸内陸の広大な草原、砂漠地帯で遊牧生活を送っていた遊牧民の中で、特に騎馬技術を身につけて高度な機動力を発揮した騎馬遊牧民が、騎馬戦術による武力と、交易ルートであった草原の道(ステップ=ロード)を抑えることによって獲得した富をもとに、周辺の遊牧部族や農耕民を征服して建設した国家。典型的な遊牧国家としてあげられるものは、スキタイ、匈奴帝国、柔然、突厥帝国、ウイグル、契丹、セルジューク朝、モンゴル帝国などである。
しかし、彼らは文字を持つことはなかったので、ギリシアのヘロドトスや、中国の司馬遷などの歴史書を通じてしかその国家のしくみや中味を知ることはできない。それらの農耕民の歴史書の中に現れた遊牧国家として最初に現れたのがスキタイ(前8世紀~前3世紀)であり、次に匈奴帝国(前3世紀~後3世紀)である。
これら古代の遊牧国家は、史料的に限られており、判らないところが多いが、最近になって、中央ユーラシア各地で相次いで遊牧国家の君主のものとも割れる古墳や記念の石柱などが発見され、発掘調査が進みつつある。<林俊雄『遊牧国家の誕生』2009 世界史リブレットp.15>
騎馬遊牧民
草原地帯で農耕を営んでいた人々が、遊牧化した要因は、気候の乾燥化によって農耕が困難になったことと、移動のさいに有用な車の発明と騎馬の導入ができたことにあった。車は前3500年ごろメソポタミアで発明され、草原地帯に伝えられたが、馬の家畜化がどのように始まったかはまだ定説がない。しかし、騎馬の技術で不可欠なことは金属製のハミ(クツワとも言う)で馬を制御することであるので、草原地帯に青銅器文化が伝わることが前提であった。中央ユーラシアの草原地帯では前1300年ごろからカラスク文化といわれる後期青銅器文化が生まれており、ナイフや斧などと共に青銅器でハミとハミ留め具が作られるようになった前10~前8世紀に、ようやく騎馬遊牧民が誕生することとなった。遊牧国家
騎馬技術は遊牧生活を成立させただけでなく、その機動性とスピードは軍事面で大きな効果をあがることとなった。彼らは強力な騎馬軍団をつくり、南方の定住農耕地帯を脅かす存在となっていくと共に、おそらく部族の統合が進んで遊牧国家の形成へと進んだものと思われる。しかし、彼らは文字を持つことはなかったので、ギリシアのヘロドトスや、中国の司馬遷などの歴史書を通じてしかその国家のしくみや中味を知ることはできない。それらの農耕民の歴史書の中に現れた遊牧国家として最初に現れたのがスキタイ(前8世紀~前3世紀)であり、次に匈奴帝国(前3世紀~後3世紀)である。
これら古代の遊牧国家は、史料的に限られており、判らないところが多いが、最近になって、中央ユーラシア各地で相次いで遊牧国家の君主のものとも割れる古墳や記念の石柱などが発見され、発掘調査が進みつつある。<林俊雄『遊牧国家の誕生』2009 世界史リブレットp.15>
Episode 白いゾドと黒いゾド
騎馬遊牧民の活動するユーラシア北方の草原は、温帯とはまったく異なる厳しい自然環境があった。遊牧国家の存続は、外敵や内訌などの人的な理由と、寒波による冷害や異常乾燥にる干害などの自然にも左右されていた。(引用)モンゴルでは冬の天候災害をゾドという。ゾドには、白いゾドと黒いゾドがある。白いゾドとは、家畜が足で雪をかき分けて下の草を食べることができなくなるほど大雪が降ったために起こる家畜の飢え死にの災害である。黒いゾドとは、逆に雪がまったく降らず、寒気のために草が完全に枯死して黒くなり、食用にならなくなるために生ずる災害である。<林俊雄『スキタイと匈奴』興亡の世界史 2007初刊 講談社学術文庫 2017 p.265>