ウイグル
中央アジアのトルコ系遊牧民。8世紀に突厥に代わって建国。安史の乱の時に唐を支援して有力となったが、次第に唐を圧迫するようになり、ソグド商人を保護して東西交易で繁栄した。しかし840年にキルギスによって滅ぼされ、一部は西方に移住、トルキスタンの成立のきっかけとなった。東トルキスタンに成立した西ウイグルは独自の文字を持つなど文化を発展させた。モンゴル人の支配下に入った後、14世紀からイスラーム化した。18世紀後半に清の支配下に入り、その地は新疆といわれるようになり、現在の中国ではウイグル人は少数民族として自治を認められているが、近年、民族運動が活発になっている。
ウイグル国家(8世紀)
トルコ系遊牧国家の形成
中央アジアで活動したトルコ系の遊牧民。モンゴル草原から中国西部のオアシス地帯で活動し、はじめ同じトルコ系の突厥に服属していた鉄勒の9部族(トクズ=オグズ)の中の一部族であった。8世紀に突厥(第二帝国)が衰退した後、744年に自立してその王は柔然、突厥と同じく可汗を称し、ウイグル国家を建国した。中国では回紇、のちに回鶻(いずれも訓はかいこつ)などと表記される。8世紀にはモンゴル高原を支配し、唐に対抗する遊牧国家の大国を形成し、安史の乱では重要な存在となった。しかし、9世紀にキルギスの侵攻を受けてウイグル国家は解体、中央アジアに移動して定住生活を送るようになり、それによって中央アジアのトルコ化が進んだので、彼らが定住した地域をトルキスタンというようになった。東トルキスタン(タリム盆地)のウイグル人はイスラーム化し、現在の中国の新疆ウイグル自治区の主要住民となっている。安史の乱とウイグル 755年、唐王朝に対する節度使安禄山が反旗を翻し、反乱軍が長安を占領するという、安史の乱が起こった。安禄山はイラン系のソグド人であり、商人や軍人として唐王朝の内部で活動しており、反乱軍にも多く含まれていた。唐の玄宗は長安を脱出し、変わった粛宗は援軍をモンゴリアの遊牧国家ウイグルに求めた。ウイグルの可汗(王)は唐支援を約束、唐王室との間では婚姻が結ばれた。ウイグル軍は反乱軍に奪われた洛陽の奪還などで活躍し、最終的に763年に安史の乱を鎮定するのに大きな力を発揮した。
参考 「安史の乱」の見方
従来は安史の乱は唐王朝に対する「反乱」であり、ウイグルは唐王朝を助けた、という大筋で説明されることが多かった。しかし、実際にはそのように単純ではなく、ソグド人やウイグル人など中央ユーラシアの諸民族の関わりが想像以上に大きかったことが判ってきた。また乱の経過の中で、ウイグルは一時、反乱軍と協力して唐を倒そうとする動きも見せており、もし反乱軍とウイグルの同盟が強固になっていれば、唐はその時点で滅亡し、後の遼や玄のような「征服王朝」が早くも成立したかも知れない状況であった。現実にはそうはならなかったが、安史の乱は次の10世紀にユーラシアに一斉に登場する遊牧民が農耕民を支配する中央ユーラシア型国家(征服王朝)の先駆的な動きだったととらえることができる。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社学術文庫> → 安史の乱の項を参照
マニ教を国教に
安史の乱で唐を助け、762年に洛陽を解放したウイグル王牟羽(ぼうう)可汗はマニ教に改宗し保護した。反乱の鎮圧に功のあるウイグル汗の後ろ盾もあり、マニ教は中国全土に広がることとなった。768年にはウイグル人のために長安にマニ教寺院の大雲光明寺が建立された。牟羽可汗はマニ教を保護することで、中央アジアから中国にかけて広く活動しているソグド人の商業活動や軍事力を支配下におこうと考えたものと思われる。牟羽可汗は反対派のクーデタで殺害されたが、その後、ウイグルではマニ教が復興し、国教となっている。マニ教を国教としたのは世界史上、ウイグルだけである。<森安孝夫『同上書』>唐―ウイグル―チベットの三帝国鼎立
安史の乱が収束した763年、動揺のまだ続く唐の都長安をチベットからの遠征軍が一時占拠するという事件がおこった。同じころ唐の武将であったトルコ系鉄勒の僕固懐恩がウイグルの牟羽可汗と結んで謀叛を企てたと疑いをかけられ、やむなく反旗を翻した。このときはウイグル―チベット―吐谷渾―タングートなどが結び、唐に迫ったが僕固懐恩が765年に死んだため分裂した。その後は、ウイグルとチベットは敵対関係に入り、西域を巡って789~792年に激しく戦った。9世紀には、中央ユーラシアは唐―ウイグル―チベットの三帝国が鼎立する状態となり、821~822年には唐とチベットの講和条約である唐蕃会盟碑が建てられている。同様な会盟がウイグル―チベット間にも結ばれたことが想定される。ウイグル人(9世紀~)
遊牧国家ウィグルが840年に崩壊、ウイグル人はトルキスタンに定住し、西ウイグル王国を建国した。これによって中央アジアのトルコ化が進んだ。西ウイグル王国ではウイグル文字がつくられるなど独自の文化が発展した。
ウイグル国家の解体
ウイグル帝国はモンゴリアにあっては中央アジアの交易ルートを抑え、ソグド商人を保護して東西貿易に従事させ、マニ教を受け入れて独自の文化を築いた。しかし830年代末になると、ウイグル帝国は連年の自然災害と内訌が続き、ついに840年にキルギスの侵攻を受けて、持ちこたえることが出来ず崩壊した。
西ウイグル王国
このとき多くのウイグル人はモンゴリアを脱出し、その遺民の一部はタリム盆地に移住、オアシス都市を支配して850年頃までには西ウイグル王国を建国した。初めは都を焉耆に置き、9世紀末から10世紀にトゥルファン盆地に入って定住農耕生活に入り、高昌を夏の都とした。彼らは独自のウイグル文字を生み出すなど高い文化を誇った。なお、ウイグル人の別な一派は花門山を通って河西地方に向かい、チベット人が840年代に河西回廊から撤退した後に、南進して甘州ウイグル王国を建てている。
ウイグル人の定住化の歴史的意義 トルキスタンの成立
9世紀にモンゴル高原を中心としたトルコ系民族ウイグル人の遊牧帝国が崩壊し、ウイグル人の一部がタリム盆地に移住し、オアシス都市に混じって定着して都市の商人や都市周辺の農耕民となったことによって、それまでソグド人などのイラン系民族が住民であった中央アジア地域がトルコ民族が主体となる、いわゆるトルコ化がすすむ第一歩となり、トルコ化した中央アジアをトルキスタンと言うようになる。ウイグル人が中央アジアに定住したことの歴史的な意義とは、中央アジアのトルコ化がもたらされたことである。 → 中央アジアのトルコ化トルキスタンのその後
トルキスタンは、パミール高原の東の天山山脈・崑崙山脈に南北をはさまれたタリム盆地、タクラマカン砂漠一帯を東トルキスタン、パミール高原の西のシル川・アム川にはさまれた地域を西トルキスタンにわかれる。8世紀頃からイスラーム教が中央アジアに入ってきたが、トルコ系民族で最初にそれを受け入れたのは10世紀の西トルキスタンを支配したカラハン朝で、その影響で東トルキスタンの一部オアシス都市にもイスラーム教が広がった。
トルキスタン全域は、12世紀には西遼の支配を受けたが、 13世紀はじめにはチンギス=ハンのモンゴル帝国に服属した。13世紀後半にはこの地域を拠点としたハイドゥの乱が起こり独立政権の観を呈したが14世紀初めまでには平定され、ウイグル人の中心は東トルキスタンの高昌に移った。その後、チャガタイ=ハン国が再興され、14世紀には東トルキスタン(タリム盆地)のウィグル人のイスラーム化が進んだ。西トルキスタンではチャガタイ=ハン国が衰え、1370年にティムール帝国が現れる。
ウイグル人(14世紀~)
イスラーム化が進んだ東トルキスタン(タリム盆地)のウイグル人は18世紀中頃までに清の支配下に入った。中華人民共和国では新疆ウイグル自治区で自治を認められたが、独自国家の樹立を目指す民族運動も起こっている。
参考 唐~元のウイグル人と現代のウイグル人の関係
唐代の歴史に出てくるウイグルと、現代中国の新疆ウイグル自治区のウイグルとは直接的にはつながっていないので注意を要する。(引用)実は古い時代のウイグルが民族集団として活躍するのは唐帝国からモンゴル帝国(元朝)の時代までであり、それ以後ウイグルの名前はいったん消滅する。ウイグルの流れを汲むが、モンゴル時代以降徐々にイスラム化していった東トルキスタン東部のトルコ人たち、並びにそれより早くカラハン朝治下にイスラム化した東トルキスタンの西部のトルコ人たちは、オアシス都市群ごとに自己認識し、トゥルファン人とかクチャ人とかカシュガル人というふうに出身地に応じてばらばらに呼ばれるようになる。それが20世紀前半になって東トルキスタンの政治的統一の必要に迫られた時、かつて栄光に包まれていたウイグルの名前を全体名称として採用するのである。そうした新ウイグルには、旧カラハン朝治下のカシュガル人、コータン人までも含まれ、後者がイスラム教徒(ムスリム)であったため誤解が増幅されたのであるが、本来の古代ウイグル人には一人もイスラム教徒はいなかった。彼らの宗教はモンゴル草原で遊牧をしていた時代はシャーマニズムとマニ教であり、天山地方に民族移動して百年以上経て農耕・都市生活に馴染むと共に仏教への改宗が顕著となり、モンゴル帝国時代にはほとんどのウイグル人が仏教徒で一部にネストリウス派キリスト教徒が混じっていた程度である。→ ウイグル人の独立運動/東トルキスタン独立運動
言語についていえば、唐~元代の古ウイグル語と近現代の新ウイグル語とは、基本的に同じトルコ語である。文法に大きな変化はない。しかし文字はすっかり変わり、また語彙も相当に変わっている。つまりイスラム化以後はアラブ=ペルシア系の語彙が流入し、さらに清朝以後は大量の漢語が借用された。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』2007初刊 2016 講談社学術文庫 p.33-34>