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モンゴル帝国/大モンゴル国

13世紀初め、チンギス=ハンがモンゴル人とその周辺民族を統合した遊牧帝国。急速にその勢力を伸ばし、13世紀後半までにはユーラシア大陸の東西に及ぶ、世界史上で最も広大な領土を持つ帝国となった。

 モンゴル高原東部の遊牧部族であったモンゴル部にあらわれたチンギス=ハンが、1206年に建設した大帝国。チンギス=ハンの時にモンゴル高原から中国北部、中央アジア、西トルキスタンにおよぶ大帝国を建設した。その形態は、チンギスの一族が支配する遊牧民や都市民、農民を含む国家としてのウルスが複合した、連合体であった。かれら自身はこの国家を「イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)」と呼んだ。また、チンギス=ハンは軍事組織として千戸制を編成、それがモンゴル帝国の行政単位ともなった。
 後にはその支配領域を中国全土、西アジア、ロシアにも広げ、さらに周辺諸民族も服属させ、大ハーンの元を中心とするハン国(大元ウルス)に分かれて広大な帝国領を支配した。

ハーン(大ハーン)

モンゴル帝国系図

モンゴル帝国 帝室の系図
①~⑤大ハーンの即位順

 チンギス=ハンはそれ以前からの遊牧民の君主の称号であるハンを称したが、第二代のオゴタイ(オゴデイ)からはチンギス=ハンの血統をひくものの中から、一族の有力者会議であるクリルタイによって推戴されたものが「ハーン」(実際の音はカアンに近い)と称し、それ以降も継承された。この「ハーン」はいわば皇帝を意味する称号であり、一般の王族の称号である「ハン」と区別されたので「大ハーン」とも言われる。
 短命だった第3代のグュクを除き、モンケ以下のモンゴル帝室の本家継承者はいずれも大ハーンを称し、それ以外の地方政権であるウルスの主張は単に「ハン(カン)」と呼ばれるので、大カーンであったオゴタイやフビライをを「オゴタイ=ハン」とか「フビライ=ハン」と表記するのは正しくないこととなる。

領土の拡大

 第2代のオゴタイ(オゴデイ)は1234年を滅ぼし、都をカラコルムに定め、バトゥをヨーロッパ遠征に派遣した。バトゥの軍はロシアの地に侵入して1240年キエフ公国を滅ぼし、さらに部隊をポーランドやハンガリーにまで進め、キリスト教世界に大きな脅威を与え、1241年にはワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を撃破した。しかし、オゴタイが死去したためバトゥは帰途につき、モンゴルの支配はロシアまでにとどまった。
 第4代のモンケの時には、弟のフビライチベット、さらに雲南方面に派遣して大理を滅ぼした。

モンゴルの西アジア征服

 モンケは、弟のフラグを1253年から西アジア遠征に派遣した。すでにイラン方面は、チンギス=ハンの遠征によってモンゴルの勢力下に入っており、オゴタイ時代にはイラン総督府が置かれ、ホラーサーンやカスピ海南岸を抑え、アゼルバイジャンからカフカス地方アナトリアにもモンゴル軍駐屯部隊が活動していた。さらにモンケ=ハンはアフガニスタンからインド方面への進出も構想していたようである。

フラグの西アジア遠征

 フラグはまず1256年には北部イランの暗殺教団を制圧、さらに南下してイラクに入り、1258年バクダードを占領し、アッバース朝を滅ぼした。こうしてイラン高原からメソポタミアを制圧し、敵対する勢力はエジプトのマムルーク朝の勢力の及ぶシリアだけとなった。
 しかし、1259年にモンケが急死したため、フラグはシリア計略は部将キトブカにまかせモンゴル帰還をめざしたが、フビライの大ハーン選出の知らせを受けてイラン北方にとどまり、1260年イル=ハン国を建国した。
 キトブカは第6回十字軍とも協力して1260年、ダマスクスを占領。さらにエジプトのマムルーク朝遠征に向かったが、同1260年アインジャールートの戦いで、クトゥズとバイバルスの率いるマムルーク朝軍に敗れ後退、モンゴル帝国の西アジア攻略は終わり、イランからメソポタミアにかけてはイル=ハン国が支配することとなった。

フビライの権力集中

アリクブケとの抗争 第4代モンケが1259年に急死(伝染病であったらしい)すると、弟のフビライ(クビライ)が出征先の開平府で開かれたクリルタイで大ハーンに選ばれたが、本国のカラコルムに残っていた勢力はそれとは別に末弟のアリクブケを選出、これによってモンゴル帝国には同時に二人の大ハーンが存在する事態となった。両者の争いは1264年にフビライの勝利に終わり、権力を集中させたフビライは同年、都を中都とすることを宣言した。

元と大都

 フビライ1271年にモンゴルと中国にまたがる領土を、中国風の王朝名としてと称すること年、(大モンゴル国、大元)とし、翌年には中都を大都と改めた(現在の北京)。モンゴル帝国全体では、元は正式には大元ウルスと言われ、その他のウルス(ハン国)を統合する権力が与えられた。この時点ではその支配はもと金の支配した華北に限られ、華南は南宋が支配していた。また都は大都(現北京)であったが、これは冬の間の都であり、夏の間は内モンゴルの上都を都とする両京制であった。 → モンゴル人による中国統治についてはを参照。

フビライの征服活動

 フビライは華南遠征を再開して中国全土支配に乗りだし、1276年南宋を滅ぼして中国を統一して氏はすることになった。この征服活動と並行して、朝鮮半島の高麗を属国とし、1274年と1281年の二度にわたる日本遠征(元寇)など周辺諸国にも遠征軍を派遣した。 → 元の遠征活動
ハイドゥの乱 このフビライ政権に対して、オゴタイの孫にあたるハイドゥは常に反抗心を持ち、1266年から中央アジアを拠点として度々反乱を起こしていた。フビライの死去(1294年)後には元に対する攻撃を強め、1300年から翌年にかけて、大軍を率いてモンゴル高原に侵攻し、元の第6代大ハーンのテムル(成宗)と戦った。しかしその戦中に1301年にハイドゥが戦死し、その子たちも1305年に降伏して終結した。この長期にわたるモンゴル帝国の内紛をハイドゥの乱といっている。その後は各ハン国も宗家の元に服属し、「タタールの平和」(パクス=モンゴリカ)が実現し、元の第2代皇帝成宗の時に元は全盛期となった。

ウルスの分立

 ハイドゥの乱を鎮圧したことによって、14世紀初頭に元とそれぞれのウルスから構成するモンゴル帝国は一定の安定期を迎えた。モンゴル帝国は大元を宗主として、フラグの建国したイル=ハン国、バトゥの建国したキプチャク=ハン国、チャガタイを祖とするチャガタイ=ハン国の3ハン国(ウルス)によって構成されることとなった。これはあくまで大元ウルスである元の皇帝がモンゴル人支配地全域への宗主権をもっており、モンゴル帝国としての一体性は維持されていた。ユーラシア大陸全域のこの安定期をタタールの平和といもいう。
現在は「4ハン国に分裂」とは言わない かつてはイル=ハン国、キプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国と共に、オゴタイを祖とするオゴタイ=ハン国があり、「4ハン国」と言われ、またそれぞれが独立性が高くモンゴル帝国は分裂した、と説明されていたが、現在はオゴタイ=ハン国の実体は無かったとされ、3ハン国とする説が有力である。山川出版社の『詳説世界史』も06年度改訂版から、「4ハン国」と「オゴタイ=ハン国」の記述が消滅した。また、3ハン国は互いに対立することもあったが、いずれも元を宗主国としているので、モンゴル帝国としての一体性は維持されており、これをもってモンゴル帝国の分裂とは言わなくなっている。しかし、西方のハン国は次第に独自性を強め、イル=ハン国やキプチャク=ハン国はイスラーム化していった。 → 三ハン国の形成

ユーラシアの東西交渉

 広大なモンゴル帝国は、首都カラコルムを中心に駅伝制度(站赤、ジャムチ)が整備され、ウイグル人、トルコ人、イスラーム教徒などの商業活動が広く展開された。ヨーロッパは十字軍の展開されていた時代の後半にあたり、ポーランド・ドイツへのモンゴルの侵入は大きな脅威となったが、西アジア方面ではイスラーム勢力と対抗上、モンゴル帝国とも結ぶ動きもあった。そのような中から、13世紀の後半にはローマ教皇インノケンティウス4世によって派遣されたカルピニ、フランス王ルイ9世の時のルブルックらようにモンゴルに達した者もおり、またイタリアの商人マルコ=ポーロは元の大都に赴き、フビライ=ハンに仕えるなど、東西交渉が活発になった。

元の滅亡

 14世紀には、元では大ハ-ンの地位をめぐる内紛が続いて安定せず、またチベット仏教保護による財政難、交鈔の濫発による経済の混乱などのために社会の不安定が続き、漢民族のモンゴル人支配に対する反発も強まった。またこの時期、疫病(黒死病と考えられる)の流行や黄河の大氾濫などの災害が続き、国力が疲弊した。
 1351年白蓮教徒という民間宗教の団体の反乱から始まった紅巾の乱が拡大し、特に江南の混乱は生産力の減退をもたらし、塩専売制と都市からの商税に依拠する元朝の財政と国家システムは大きく動揺することとなった。その混乱の中で、1368年に南京に成立した明朝が、軍を北上させると元は大都を放棄して元は滅亡し、モンゴル高原に後退した。
その後のモンゴル 最後の皇帝順帝が1368年に大都を放棄して元は滅亡したが、順帝は北方の内モンゴルに逃れ大カーンの地位を維持しており、これを北元という。順帝は1370年に没し、その弟が大ハーン位を継ぎ、カラコルムを拠点に明を圧迫した。しかし、モンゴル軍は1388年に、明軍の攻勢を受けて敗れ、明の優位が確定した。その後、モンゴル人はチンギス=ハンの後継者と称するタタール部やオイラート部などがたびたび勢力を盛り返し、明を脅かすが、次の清の時代には康煕帝・乾隆帝などの攻撃を受け、その支配を受けて藩部に組み込まれることとなる。

モンゴル帝国の残照

 元が滅亡した14世紀後半には、チャガタイ=ハン国イル=ハン国も国家的統合を弱め、モンゴル帝国としての一体感は失われていった。また、キプチャク=ハン国では15世紀末にモスクワ大公国が自立し、チャガタイ=ハン国では14世紀にティムールが台頭するなど、モンゴル帝国のユーラシア支配は終わりを告げた。
 しかし、中央アジアのティムール帝国やインドを支配したムガル帝国はいずれもチンギス=ハンの後継者をもって自認し、モンゴル帝国を継承したことを権威の拠り所としている。
 モンゴル高原のモンゴル人は、長く清朝の支配を受け続けたが、モンゴル文字やチベット仏教などの独自の文化は維持した。辛亥革命が起きると、モンゴル人の独立運動が活発となったが、ロシアと中国という大国に挟まれ、さらに大陸進出を策する日本の動きなども影響して、同じモンゴル人居住地域でありながら、外モンゴルと内モンゴルに分断される形となり、前者はモンゴル人民共和国(現在はモンゴル国)として独立したものの、後者は内モンゴル自治区として中華人民共和国の自治区にとどまっている。しかし、モンゴル人の中には、今もチンギス=ハンとモンゴル帝国の歴史は民族の栄光として意識されている。
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杉山正明
『モンゴル帝国の興亡』上
1996 講談社現代新書