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カラハン朝/カラ=ハン朝

9世紀、中央アジアに興ったトルコ系王朝。10世紀中頃、トルコ系として最初にイスラーム教を受け入れ東トルキスタンのイスラーム化の端緒となった。999年にサーマーン朝を滅ぼし、西トルキスタンのトルコ化を進めた。1133年、耶律大石がカラハン朝を滅ぼし西遼を建国した。

 中央アジアに起こった最初のトルコ系イスラーム王朝(840~1212年)。その成立には不明なところが多いが、もともとアルタイ山脈の南西にいて突厥に服属していたトルコ系のカルルク人が、ウイグルとともに突厥を滅ぼし、9世紀にキルギスに追われたウイグルが東トルキスタンに入るとそれに押される形で、西トルキスタンに入ったのが始まりと考えられている。840年、このカルルク人の部族連合が、カラハン朝を成立させたともいう。

イスラーム教を受容

 カラハン朝は、10世紀中ごろ中央アジアのトルコ系民族としてはじめてイスラーム教を受容した。伝承によると955年に死んだボグラ=ハーンと称した人物が最初で、それはカラハン朝の西にあったイラン系のイスラーム王朝サーマーン朝に仕えるトルコ人からイスラームの信仰を伝えたという。後に、イスラーム世界で重要な存在となるトルコ系民族が、初めてイスラーム教を受け入れたことは重要な意味があった。
 999年にはサーマーン朝を滅ぼし、東西トルキスタンにまたがる国家となった。しかし部族連合国家であったため統一国家としての力は弱かったらしい。都は天山山脈北側の、現在のキルギス共和国の首都ビシュケクの東方にあるベラサグンであるが、フェルガナ盆地のウズケント、東トルキスタンのカシュガルにも根拠地を置いていた。

耶律大石に滅ぼされる

 11世紀以降、東西に分裂し、ガズナ朝、次いでセルジューク朝に押されて衰退していたところに、12世紀中頃、モンゴル高原東部で、女真の建てたに圧迫されて西方に逃れた契丹人の国、の皇帝の一族耶律大石が西方に遠征、その軍によって滅ぼされた。耶律大石は1133年に、カラハン朝と同じベラサグンを都に西遼(カラ=キタイ)を建国した。

カラハン朝の歴史的意義

 第一はサーマーン朝(イラン系)を滅ぼし、西トルキスタンのトルコ化を促進したこと。ここから中央アジアのトルコ化が始まり、中央アジアのパミール高原の東西の地域をトルキスタン(トルコ人の土地)と言うようになった。
第二はカラハン朝がイスラーム教を受容したこと。ここからトルコ人のイスラーム化が始まる。カシュガルやサマルカンドがその領内の都市として栄えた。

カラハン朝でのトルコ語文学の創始

 カラハン朝のカシュガルの宮廷人でトルコ人のユースフは11世紀中ごろ、君主の行動の規範を説いた『クタドゥグ・ビリク』と言う書をトルコ語で書いて君主に献呈した。これはトルコ語で書かれた世界最世の文学書とされている。またカシュガルに生まれたカシュガリーは、1077年に最初のトルコ語辞典である『トルコ語辞典』を完成した。これらは、後のティムール朝時代に開花するトルコ=イスラーム文化の先駆であり、トルコ人の文化面での発展を示している。

参考 カラハン朝? カラ=ハン朝?

 カラハン朝の表記は、山川出版社の詳説世界史Bの2013年版からで、それ以前はカラ=ハン朝だった。“=”がとれたわけだが、いまでも古い版の歴史事典などでカラ=ハン朝(例えば平凡社『イスラーム事典』1982によると、Cara Khān となっている)という表記をみることがある。どうやら君主がカガン(可汗つまり、ハン)の称号を用いていたことから、トルコ語・イラン語では Qarā Khān であるが、同時代のアラビア語文献ではハーカーニーヤ Khakānīya といわれており、英語表記が Qarakhanids なのでそれに従うようになったらしい。現在の世界史探求の教科書・用語集ではカラハン朝となっているが、一部用語集(2022年実教出版必携世界史用語)はまだカラ=ハン朝となっている。しばらくはカラ=ハン朝でも×にはならないのでは。
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