カラ=ハン朝/カラハン朝
9世紀、中央アジア最初のトルコ系イスラーム王朝。中央アジアのトルコ化が進む。
中央アジアに起こった最初のトルコ系イスラーム王朝(840~1212年)。その成立には不明なところが多いが、もともとアルタイ山脈の南西にいて突厥に服属していたトルコ系のカルルク人が、ウイグルとともに突厥を滅ぼし、9世紀にキルギスに追われたウイグルが東トルキスタンに入るとそれに押される形で、西トルキスタンに入ったのが始まりと考えられている。840年、このカルルク人の部族連合が、カラ=ハン朝を成立させ、10世紀中ごろにイスラーム教を受容(伝承によると955年に死んだサトゥクで、ボグラ=ハーンと称した人物が最初という)、999年にはサーマーン朝を滅ぼし東西トルキスタンにまたがる国家となった。しかし部族連合国家であったため統一は弱かったらしい。都は天山山脈中のベラサグン(現在のキルギスに遺跡がある)であるが、フェルガナ地方のウズケント、東トルキスタンのカシュガルも根拠地とした。 11世紀以降、東西に分裂し、ガズナ朝、次いでセルジューク朝に押されて衰退、12世紀中頃、モンゴル高原東部から金に圧迫されて移動してきた西遼(カラ=キタイ)に併合された。
カラ=ハン朝の歴史的意義
第一は999年に西トルキスタンに侵攻してサーマーン朝(イラン系)を滅ぼし、西トルキスタンのトルコ化を促進したこと。ここから中央アジアのトルコ化が始まり、中央アジアのパミール高原の東西の地域をトルキスタン(トルコ人の土地)と言うようになった。第二はカラ=ハン朝のトルコ人が西隣のサーマーン朝の影響を受けてイスラーム教を受容したこと。ここからトルコ人のイスラーム化が始まる。カシュガルやサマルカンドがその領内の都市として栄えた。カラ=ハン朝でのトルコ語文学の創始
カラ=ハン朝のカシュガルの宮廷人でトルコ人のユースフは11世紀中ごろ、君主の行動の規範を説いた『クタドゥグ・ビリク』と言う書をトルコ語で書いて君主に献呈した。これはトルコ語で書かれた世界最世の文学書とされている。またカシュガルに生まれたカシュガリーは、1077年に最初のトルコ語辞典である『トルコ語辞典』を完成した。これらは、後のティムール朝時代に開花するトルコ=イスラーム文化の先駆であり、トルコ人の文化面での発展を示している。参考 カラ=ハン朝? カラハン朝?
カラ=ハン朝の表記は、山川出版社の詳説世界史Bの2013年版から、カラハン朝となり、“=”がとれた。しかし、今のところ、他社の教科書や用語集などはいずれもカラ=ハン朝(例えば平凡社『イスラーム事典』1982によると、Cara Khān となっている)のままであるが。どうやら君主がカガン(可汗つまり、ハン)の称号を用いていたことから、同時代のアラビア語文献ではハーカーニーヤ Khakānīya といわれていたので、歴史家のなかにはカラハン朝とする人もいるらしい。ハーカーニーヤ→カラハンは苦しいと思うが・・・。いずれにせよ、まだ資料的にも実体のよく分からないことなので、従来通り、カラ=ハン朝の表記で問題なさそう。