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元(フビライ)の遠征

元はフビライ=ハンの時、1270~90年代にかけて、東アジア、東南アジア各地に盛んに征服活動を行った。その多くは失敗に終わったが、各地域に大きな影響を与えた。

 元朝フビライ=ハンは、1276年南宋を滅亡させて、1279年にその残存勢力も厓山の戦いで一掃して中国を統一した。その前後に、周辺諸地域に次々と遠征軍を送っている。それは「海上侵攻」によって行われたが、ささえた「江南軍」は、泉州で活動していたムスリム商人を抑えて、自らもイラン系またはアラブ系と称していた蒲寿庚などが建造した艦艇が使われた。また遠征軍もムスリム商人のルートを採ったものとも思われ、この海外遠征が恒久的な占領を狙うよりは、通商路の拡張を狙って行われたことをうかがわせる。また、以下のいずれの遠征活動も、フビライ自身が親征したわけではなく、モンゴル人を主体に漢人、朝鮮人など諸民族からなる元軍を派遣したものであった。

フビライ時代の元軍の遠征活動

  • 日本 東方では、すでに朝鮮の高麗を服属させており、1274年と、1281年の二度にわたって日本遠征=元寇(文永・弘安の役)をおこなった。1274年の第1回は元軍と高麗軍の連合軍が北九州の海岸に上陸したが、鎌倉幕府の御家人は執権北条氏からの恩賞を期待して奮戦し、撃退した。第2回は1281年、江南からの宋の残存兵が動員されて加わったが、上陸を前にして暴風雨に襲われ、多くの艦船と兵士が海に飲まれて失敗した。執権北条時宗は一貫して元との交渉を拒否する態度を貫き、暴風にも助けられた形で勝利したが、元軍の敗因は、モンゴル・高麗・旧南宋のそれぞれの将兵に協力体制がなく、戦闘意欲にも欠けるところがあったためと考えられる。フビライは第三回の日本遠征を計画したが、国内で反乱が起こって実施できないまま死去し、計画は実行されなかった。
     元寇は鎌倉幕府の御家人体制の動揺、徳政令の乱発などの鎌倉幕府の体制を大きく揺るがす要因となった。しかし、一方で元から多数の僧侶が来日して禅宗などの鎌倉仏教の発展に寄与し、日本からも多くの僧侶が元で学んでいる。また、戦争の反面、民間レベルでは盛んに交易が行われ、元で使用されなくなった宋銭が大量に日本に輸入されるなど、密接な関係が続いた。
  • ベトナム 南方に対してはすでにモンゴルはモンケ=ハンの時1253年大理国を滅ぼし、1257年にベトナム北部の大越国陳朝に侵攻しハノイを占領したが一旦撤退した。フビライ=ハンが即位すると陳朝は服属する形をとり安南国王に任じられた。1281年チャンパー遠征に失敗したフビライは、陳朝にも出兵を要求したが、陳朝がそれを拒否したため、1284年に第2回の遠征が行われた。このときは日本と同じように暴風雨によって元軍は壊滅した。1287年、フビライは陸上と海上から陳朝に対する三度目の攻撃を行い、ハノイを占領したが、海上からの補給が続かず、今度も撤退した。陳朝は一時的には元に服属したが、この三度にわたるベトナムへの遠征と戦い、民族的な自覚を強めることとなった。
  • チャンパー 1279年、南宋を滅ぼすと、南海諸国との通商に乗り出し、泉州などに市舶司を置き、また使節をチャンパー(占城)、ジャワ、スマトラ、インドに派遣し入貢を促した。1281年、元は現在のベトナム中部を支配していたチャンパに行省(行中書省)をおいて南方諸国を統括しようとしたが、チャンパ王がそれを拒否したため、討伐軍を派遣し国都ヴィジャヤを攻撃した。しかし、チャンパーの激しい抵抗で撤退した。
  • ビルマ 同じく大理を基地として、その南のビルマのパガン朝に対し、1287年に遠征軍を送った。パガン朝は仏教への過大な保護によって仏塔・仏寺の造営に多額の費用を浪費して国力が低下していたため、首都パガンを占領された。モンゴル軍は撤退したが、これを機にパガン朝は急速に衰えた。
  • ジャワ島 1292年にはジャワ島にも大艦隊を遠征させた。当時ジャワ東部を治めていたシンガサリ朝は内紛のため倒れ、元と結んだマジャパヒト朝が権力を握るという王朝交替が起こったが、マジャパヒト王国は巧みな交渉で元軍を撤退させ、独立は維持した。
 これらの遠征は必ずしも成功したわけではなく、日本遠征、ベトナム遠征とジャワ島遠征の場合はいずれも失敗している。日本遠征・チャンパー遠征では暴風雨で、東南アジア遠征では風土病で大きな犠牲を出している。

元の遠征の影響

 しかし、アジア各地に大きな影響を及ぼしたことは確かである。日本は元寇を撃退することはできたが、鎌倉幕府はそれを機に弱体化に向かい、南北朝の戦乱期に入り、倭寇の活動が始まる。東南アジアでは、ベトナム人、タイ人、ビルマ人などの民族的自覚が始まり、ベトナムの字喃や、タイ文字などの文字が生まれ、タイのスコータイ朝・ジャワ島のマジャパヒト朝などの新しい勢力が登場することとなる。また、元の海上進出によって、ユーラシア世界の海域が一つに結ばれ、交易圏が拡大したという下のような指摘もある。このような東南アジア海域と南アジア海域を結ぶ海上交通の活発化によって、イスラーム教が東南アジア地域に及んできたことも見逃すことはできない。

交易圏拡大をめざした東南アジア進出

 1287年、フビライ=ハンは対外政策を経済・通商を基軸とした平和友好路線に転換し、スリランカを初めとする南海諸国の24ヵ国に使節団を送り入貢を促した。1292年のジャワ島遠征もこのような通商活動をめざしたもので、1万5千のも乗員を乗せた大元ウルス艦隊は南シナ海とジャワ海に現れた史上最大の艦隊であった。しかしジャワ島との交渉は陸戦部隊が不用意に内戦に介入したため「失敗」した。しかし、モンゴル艦隊の派遣によって、南シナ海-ジャワ海-インド洋を結ぶ海上ルートが生まれ、大元ウルスとイル=ハン国(フラグ=ウルス)は海上ルートでも結ばれた。マルコ=ポーロの帰国はこの海上ルートを利用した。こうして、13世紀のユーラシア世界は、東は日本列島から西はブリテン島まで広く連鎖の輪によって初めてつながれたことになる。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.140-143>

参考 フビライの南方遠征の性格

 内陸の遊牧国家であったモンゴル帝国のフビライは、南宋を征服して中華世界を統一、海軍力を獲得してから、積極的に海上に進出し、「海上帝国」への転身を図った。その過程で行われたフビライの南方遠征については、次のような指摘がある。
(引用)こうした南方遠征の全体をながめてみると、軍事上よりも、むしろ経済上の側面がきわだってうかびあがる。通商や交易を勧誘したり、海洋による通商ルートとその拠点となる港を確保しようとするほうが目につく。艦隊も、武装した商船隊にちかい。あえていえば、陸地を軍事征服するのではなく、海域を制圧しようとしたのである。しかも、「遠征」の企画・立案からはじまって、全般にわたってムスリム商業勢力の影が見える。<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.214>