サーマーン朝
9世紀に中央アジアに生まれたイラン系の最初のイスラーム政権。ブハラを都にイラン=イスラーム文化を開花させた。
ウズベキスタンのブハラに残るイスマーイール=サマーニー廟。中央アジアでもっとも古いイスラーム建築。
9~10世紀に中央アジアのマー=ワラー=アンナフル(イスラーム以前のソグディアナ)地方を支配したイラン人系のイスラーム政権。中央アジアにおける最初のイスラーム政権であった。
8世紀後半にアム川の南のバルフ地方にいたイラン系地主(ディフカーン)のひとりサーマーン=フダーがアラブ人からイスラーム教を受容し、その一族は代々、アッバース朝カリフから重用され、9世紀初めに西トルキスタンの支配権を認められて、875年にアッバース朝を宗主国として事実上の独立国家となってブハラを都に建国した。
サーマーン朝は現在のウスベキスタン、トルクメニスタンを支配し、9世紀末にはイラン東部のサッファール朝(イラン人の建国したイスラーム王朝)を倒して勢力をイラン高原に及ぼした。中央アジアからトルコ人奴隷をマムルークとして購入し、イスラーム世界に輸出することで収入源にしていた。
またサーマーン朝は古来のイラン文化とイスラーム文化を融合させイラン=イスラーム文化を創出したことが重要で、首都ブハラで従来のソグド文字などに代わり、アラブ文字を用いた新しいペルシア語が発達し、詩人のルダキーやハディースの編纂で知られるブハーリーが活躍した。イスラーム文化を代表するイブン=シーナーは、サーマーン朝時代のブハラで生まれたイラン人である。
首都ブハラはイスラーム神学や法学の中心地として栄えていく。またサマルカンド、メルヴが商業都市として繁栄した。10世紀中頃から衰え、999年に東方から移動してきたトルコ系カラ=ハン朝によって滅ぼされた。
8世紀後半にアム川の南のバルフ地方にいたイラン系地主(ディフカーン)のひとりサーマーン=フダーがアラブ人からイスラーム教を受容し、その一族は代々、アッバース朝カリフから重用され、9世紀初めに西トルキスタンの支配権を認められて、875年にアッバース朝を宗主国として事実上の独立国家となってブハラを都に建国した。
サーマーン朝は現在のウスベキスタン、トルクメニスタンを支配し、9世紀末にはイラン東部のサッファール朝(イラン人の建国したイスラーム王朝)を倒して勢力をイラン高原に及ぼした。中央アジアからトルコ人奴隷をマムルークとして購入し、イスラーム世界に輸出することで収入源にしていた。
またサーマーン朝は古来のイラン文化とイスラーム文化を融合させイラン=イスラーム文化を創出したことが重要で、首都ブハラで従来のソグド文字などに代わり、アラブ文字を用いた新しいペルシア語が発達し、詩人のルダキーやハディースの編纂で知られるブハーリーが活躍した。イスラーム文化を代表するイブン=シーナーは、サーマーン朝時代のブハラで生まれたイラン人である。
首都ブハラはイスラーム神学や法学の中心地として栄えていく。またサマルカンド、メルヴが商業都市として繁栄した。10世紀中頃から衰え、999年に東方から移動してきたトルコ系カラ=ハン朝によって滅ぼされた。
世界遺産 イスマーイール=サマーニー廟
ブハラには現在、サーマーン朝時代の遺跡として、イスマーイール=サマーニー廟がある。これは907年に亡くなったサーマーン朝の君主イスマーイール=サマーニーが、父や子孫のために造った廟で、中央アジアでもっとも古いイスラーム建築として重要である。9m四方の四角の建物の上にドームが乗っているおり、日干し煉瓦だけで美しくくみ上げられおり、ソグド人の文化の伝統も見られる。この廟はモンゴル人による破壊をまぬがれたが、長く砂に埋もれ、1925年に発掘された。マムルークの始まり
(引用)サーマーン朝勃興の原因は、王朝のイラン人君主達が草原の遊牧トルコ人を奴隷として購入し、これに系統的な教育を施して、君主に忠実無比で、しかも武力に優れたトルコ人奴隷マムルークの集団をつくりあげ、彼らを君主権を擁護する強力な軍団に組織化することに成功した点にある。つまり、文化・経済の面で先進的であった中央アジアの定住民がオアシス都市を根拠に形成したこの王朝は、その内部に、草原の遊牧民の卓越した軍事力を、マムルーク軍団という形で巧みに取り入れることによって、強力な国家へと成長することが出来たのである。そこには明らかに、中央アジアの定住民と遊牧民が、それぞれの長所を利用しあい、新しいエネルギーを生み出した見事な姿を認めることができる。しかも彼らは、自らつくりあげたこの新しい軍事システムを、一種の国家的事業として、西アジアの社会へ輸出した。その結果、アッバース朝のカリフをはじめ、西アジアの権力者達はこのシステムを急速に採用し、システムの要となる中央アジアのトルコ人奴隷の獲得に努めたのである。<間野英二『地域からの世界史8 内陸アジア』1992 朝日新聞社 p.67-68>