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リチャード1世

12世紀末、イギリスのプランタジネット朝第2代目の王。獅子心王。第3回十字軍で活躍したが聖地回復は成らなかった。

 イギリス(厳密にはイングランド王国)のプランタジネット朝2代目の王(在位1189~99)。父はヘンリ2世。弟がジョン王。父から相続したフランス国内の領地に加え、母のエレアノールからもフランスのアキテーヌ地方を相続し、フランス王フィリップ2世にとって大きな脅威となった。 → イギリス
 リチャード1世は高校教科書では「1189年第3回十字軍を指揮し、サラディンとわたりあった“獅子心王”(the Lion-hearted)」として出てくるだけであるが、12世紀後半の中世ヨーロッパにおいてはそれとは別に最も注目すべき人物の一人。プランタジネット朝創設者ヘンリ2世を父、12世紀ルネサンスの華といわれ、英仏両国の王妃となったエレアノール(アリエノール)を母とし、あのマグナカルタで有名なジョン(欠地王)の兄というだけで、特別なポジションにいたことが判る。イギリス王(イングランド王)となりながら、ほとんどフランスで育ち、英語もまともに話せず、父や兄弟たちと領地争いを繰り広げ、十字軍を率いてサラディンと戦い、イェルサレムを目前にして講和、その帰途には嵐にあって漂流した末、神聖ローマ帝国皇帝の捕虜となってしまい、莫大な身代金で解放されるという、まさに波乱に富んだ生涯であった。彼の生涯をたどることで中世ヨーロッパとはどんな世界であったか、理解が一歩進むにちがいない。

父ヘンリ2世との確執

 リチャードの父ヘンリ2世は、もとはフランスのアンジュー伯であったが、母マティルダがイングランドのノルマン朝の出身であったことから1154年にイングランド王位を継承、プランタジネット朝を開いた。さらにその妃となったエレオノール(英語読みではアリエノール)がアキテーヌの相続権を持っていたので、彼の支配地はイングランドからピレネー山脈に至るフランス西部を含み、アンジュー帝国ともいわれた。
 ヘンリ2世とエレオノールの間には5人の男子が生まれ、長男は夭折したので、ヘンリ、リチャード、ジョフリー、ジョンの4人に分割相続が予定された。それはほぼヘンリ王子にはイングランドとノルマンディ、リチャードにはアキテーヌ、ジョフリーにはブルターニュを与えるというもので、末っ子のジョンには分与地がなかった。そのためジョンは欠地王といわれるようになる。しかし、ヘンリ2世は権力を握り続け、次第に末子ジョンへの王位継承を考えるようになったので、ジョンを除く3兄弟は1173年に父に反旗を翻した。しかし、戦術に長けたヘンリ2世は子どもたちの反乱を鎮圧、その黒幕として王妃エレオノールも幽閉してしまった。
 間もなく王位継承者のヘンリ王子が死去すると、再び跡目相続の争いが起こった。父親は末っ子のジョンを哀れに思い、王位を継承させようと考えたが、他の二人が反発、王妃エレオノールはリチャードを支持したため、父王ヘンリ2世は孤立した。この親子間の争いにフランス王ルイ7世(エレオノールの前夫)と次のフィリップ2世が介入し、イギリスとフランスをまたぐ骨肉の争いが展開された。結局、1189年にヘンリ2世が死去、リチャードがイングランドとフランス国内の領地を相続することになった。しかし、弟ジョン王との確執はその後も続くこととなる。<このあたりのヘンリ2世とエレオノール、リチャードらの子どもたち対立を、彼らがシノン城に一堂に会したという場面を設定して凝縮させて描いた映画が『冬のライオン』> → ヘンリ2世

第3回十字軍

 父王ヘンリ2世の死去によって1189年にイングランド王としてロンドンのウェストミンスター教会で戴冠式を行ったリチャード1世は、母エレオノールの支持を受けて、積極的に所領経営にあたった。しかしアキテーヌ地方の反乱鎮圧に力を注いだので、イングランドにはあまり足を運ばなかった。そこに持ち上がったのが第3回十字軍の派遣の要請であった。
 すでに1187年、十字軍国家イェルサレム王国が、アラブ側のサラディン(サラーフ=アッディーン)によって奪われたことに衝撃を受けたキリスト教世界に、聖地奪回の声が起こった。イギリス王は第1回、第2回には参加していなかったので、信仰心篤く、理想主義者であったリチャード1世は、イギリス王として初めて遠征軍派遣を決意した。それまで敵対していたフランス王フィリップ2世とも一時和解して協力することとした。1189年12月に出発、途中から海路を取り、シチリア島でフランス王と合流、1191年5月にメッシナ港を出港。途中で嵐に見舞われ、キプロス島に到着、離反していた総督を倒し、イェルサレム王国の一部に編入した。リチャード1世はキプロス島を拠点に海上からアッコンを攻撃、さらに上陸してサラディン指揮のアラブ軍を撃破して占領に成功し、勇名をとどろかした。しかし、十字軍側の足並みのそろっていなかった。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は途中の小アジアで不慮の事故のため死去し、ドイツ軍は引き上げてしまった。フランス王フィリップ2世もアッコン陥落後に帰国してしまい、、リチャード1世は苦しい戦いが続いた。

サラディンとの講和

 長期の遠征に兵が疲弊したこともあって、リチャードはサラディンの弟のアル=アーディルを通じてサラディンとの講和を持ちかけ、ようやく1192年9月に効力5年の休戦講和条約を締結した。休戦協定によってイェルサレムへの巡礼は保障され、アッコンに代理府をおくイェルサレム王国の存続が認められたが、目標の聖地イェルサレムの回復はできず、リチャードも入城を断念して帰途に向かった。

Episode リチャード1世の奇抜な講和条件

(引用)リチャードは尊大で、しかも短気な性格の人物であったが、反面、冷静なリアリストでもあり、当時の十字軍がおかれた状況を的確に把握していた。今やパレスティナの諸都市の大半はムスリム軍の支配下にあり、たとえエルサレムをもう一度奪回したとしても、十字軍の側にこれを支えるだけの軍事力はなく、海岸からの補給路を確保することすら難しい。むしろ将来に備えてヤーファやアスカラーンなどの海港都市を確保するのが得策ではないのか。<佐藤次高『イスラームの英雄サラディン』1993 講談社選書メティエ p.191>
 リチャードはこう判断したが、十字軍内部にはイェルサレム奪還にこだわる意見が強くまとまりを欠いていた。現実的なリチャードはそこでサラディンと接触して交渉による休戦を探ることにし、奇抜な講和話をもちかけた。それはリチャードの妹のジョアンナをサラディンの弟アーディルと結婚させ、二人の王権のもとでイェルサレムを治めるというものであった。サラディンはただちに同意したが、肝心のジョアンナがムスリムとの結婚などできないと拒否したため、結局不成立に終わった。

Episode ほんとにあった「キングの身代金」

 リチャード1世は中東からイギリスに戻る途中、アドリア海で遭難し、オーストリア公の捕虜となり、さらに神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世(フリードリヒ1世の子)に身柄が引き渡された。皇帝は莫大な身代金を要求、イギリス(イングランド王国)はその条件をのんで、ようやくリチャードは解放された。リチャード1世が捕虜となり、さらに莫大な「キングの身代金」を支払って解放されるまでの経緯はつぎのようなことであった。
 1192年10月、ガレー船に乗ってアッコンを出航、リチャードは途中海賊に捕まることを警戒してテンプル騎士団の兵士に扮装した。途中、海賊船に襲われると買収して乗り換え、アドリア海を進むうち、ブリンディジ沖で嵐に合いついに難破してしまった。わずかな供とともにリチャードが漂着したのは当時オーストリア公の領地であったヴェネツィア近くの海岸だった。オーストリア公レオポルトはフランスと対立していたので、リチャードは捕らえられることを恐れ、巡礼や従者の姿に身をやつしながら、なんとかウィーン郊外までたどり着いた。イギリス王らしい一行が潜伏しているという報を受けたレオポルトが厳しく街道を探索、旅籠にひそんでいたリチャードは部下の一人がうっかりイングランド王家の印である獅子の紋章入りの手袋をしていたことで発覚し、92年12月20日に捕らえられてしまった。
 オーストリア公はリチャードの身柄を神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡した。ハインリヒ6世は赤髭王フリードリヒ1世の子で、リチャードの義兄のザクセン公と皇帝を争った経緯もあり、またアンジュー帝国の隆盛に対抗する好機と考え、莫大な身代金を要求した。身代金とされた銀貨15万マルクは純銀にして35トン、王国の歳入の5年分に相当するという法外なものであった。リチャードの母エレアノールはローマ教皇に仲介を嘆願するなど、八方手を尽くし、93年6月の交渉で、まず10万マルクを支払ってリチャードを釈放し、残りは5万は後払い、その人質ととして200人を差し出すということになった。身代金の支払いのため奴隷以外の国民は一人残らず年収の4分の1を納め、騎士には冥加金、教会、修道院には金銀の宝物の放出が求められた。
 10万マルクはすぐには集められなかったので、皇帝は新たな条件としてイギリス国王が神聖ローマ皇帝に臣従の礼をとることと毎年5千ポンドの貢ぎ物を課した。エレアノールは憤激したが、やむなくその条件を容れ、1194年厳冬の2月2日、マインツで引き渡しの儀式が80歳に近いエレアノールも出席して行われ、リチャード1世はようやく解放された。
 リチャードを捕虜にしたオーストリア公レオポルトに対しても、十字軍の英雄を私憤から捕らえ、皇帝に引き渡したと言うことで非難が巻き起こり、ローマ教皇からも破門された。1194年のおわりごろ、レオポルトは落馬して亡くなったが破門されていたのでキリスト教の葬式はおこなわれなかった。レオポルトの死をきっかけにイングランド側の人質は解放され、未払い分の身代金も凍結されることとなった。 <以上、この項は石井美樹子『王妃エレアノール――十二世紀ルネサンスの華』1994 朝日選書 による。>

アンジュー帝国の崩壊

 1194年に帰国すると、リチャード1世は王座を暖める間もなく、直ちに大陸に出兵した。それは、リチャードが捕虜となっている間、フランス王フィリップ2世がノルマンディーなどのイギリス領に侵攻し、また弟ジョンもそれに同調しようとしていたからであった。フランスに渡ると各地でフィリップ2世の軍と交戦、国王帰還で意気あがるイギリス兵を鼓舞し、各地でイギリス領を回復した。しかし、交戦中の1199年に、肩を矢で射貫かれたことが原因となり、41歳で戦死した。
(引用)恐れ知らずの武勇から「獅子心王」の異名も取ったリチャード1世はヨーロッパ全土にその名を轟かせた王ではあった。しかし彼は最後までイングランド国王になりきれなかった。オックスフォードで生まれたにもかかわらず、日常会話はフランス語であり英語を話さず、十五歳でアキテーヌ公に叙せられてからは人生の大半をフランスですごした。10年に及んだ在位でイングランドに滞在したのはわずか五ヶ月ほどである。それはイェルサレムへの遠征やドイツでの虜囚生活より短かった。<君塚直隆『物語イギリス史』(上)2015 中公新書 p.83>
 リチャード1世時代のあいつぐ戦争の経済負担は、アンジュー帝国の崩壊を速めていった。リチャード1世の王妃はスペイン北部のナヴァラ王国の王女ベレンガリアであったが、彼女もまたイングランドの地を踏むことはなく、二人の間には世継ぎが誕生しなかった。イングランド王を継承したのは弟ジョンであった。

Episode 男色家の国王

 リチャード1世は若い頃から男友達としか遊ばない、名だたる男色家だったらしく、王妃ベレンガリアとの間にはついに跡継ぎが生まれなかった。そういえば、映画『冬のライオン』でもリチャードの許嫁として登場するフランス王の姉アレスは、リチャードには近づかず、その父ヘンリ2世の愛人として描かれており、兄弟たちが言い争う場面では同性愛者だと罵倒されている。しかもその相手は、若きフランス王だった! そんなことってあったんだろうか。

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石井美樹子
『王妃エレアノール』
1997 朝日選書