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奴隷王朝

1206年に成立したインドのイスラーム政権。ゴール朝の奴隷だったアイバクが1206年にデリーに建国。歴代スルタンに奴隷出身が多く、奴隷王朝という。以後、1526年にムガル朝がはじまるまで続くデリー=スルタン朝の最初となった。

 インドにおいて、1206年に自立した最初のイスラーム王朝。「奴隷王朝」という名は、最初のスルタンのクトゥブッディーン=アイバクゴール朝のトルコ系奴隷兵士(マムルーク)出身であり、歴代のスルタンが奴隷またはその直系子孫の出身であったからである。都はデリーに置かれたので、デリー=スルタン朝の最初とされる。 → インドへのイスラーム教の浸透

奴隷王朝という名称

 奴隷王朝は、英語の Slave Dynasty の直訳。初代アイバク(在位1206~10)はゴール朝のムハンマドの奴隷、次のイルトゥトゥミッシュ(在位1211~36))はアイバクの奴隷、バルバン(在位1266~87)はイルトゥトゥミッシュの奴隷であった。この奴隷というのは、古代社会の奴隷とは異なり、エジプトのマムルーク朝のマムルークと同じく、文武両道にすぐれたエリートである「宮廷奴隷」であり、武将としてあるいは行政官として権力を握っていた。彼ら、宮廷に属する奴隷たちは「四十人組」という会議を組織し、意のままに王を廃立したのだった。
 「奴隷王朝」という名については、実際に奴隷出身でスルタンになったのは上記の3人に過ぎないとして、正しくないという意見もある。エジプトと同じく「マムルーク朝」またはアイバクの名前から「クトゥブ朝」という言い方もある。<近藤治『インドの歴史』1977 講談社現代新書 p.143>
トルコ人奴隷の存在 トルコ系王朝であったマムルーク朝やインドの奴隷王朝での「奴隷」は、古代の奴隷制社会の奴隷とは意味が違う。もともとは奴隷市場で売り買いされ、自由のない身分であったが、9世紀頃からイスラーム世界では、奴隷として王や有力者に仕えたトルコ人の青年が親衛隊となるだけでなく、イスラーム法学や神学、アラビア語の文学などの教養を身につけるようになった。宮廷や貴族の家では優秀なトルコ人奴隷を側近として用いた。知力と体力に優れ、しかも主人に絶対的に服従する有能な奴隷は、スパイを操る宮廷政治で活躍するようになり、奴隷の身分のまま貴族や軍司令官になるものが現れた。王にとっては有能な奴隷は権力の保持に役立ち、奴隷にとっては権力と栄達への道であった。<荒松雄他『変貌するインド亜大陸』世界の歴史 24 1978 講談社 p.84>

デリー=スルタン朝の始まり

 ゴール朝ムハンマドはインドに遠征したが帰路に暗殺され、武将だったクトゥブッディーン=アイバクがラクナウで即位、その後もインドにとどまってチャーハマーナ朝の都であったデリーに政権を樹立した。彼は武将のイルトゥトゥミッシュとともにチャーハマーナ朝の都城にモスクを建てた。その塔がクトゥブ=ミナールであり、インドのイスラーム化の始まりを示す記念碑的な建造物として今も残されている。

モンゴルの侵攻の始まり

 次のイルトゥトゥミッシュはベンガルやクワーリヤル、さらにマールワーやシンド地方を征服し、晩年にバグダードのカリフから正式にスルタンの称号を授けられた。その後、北方からのモンゴルの侵入が始まり、1241年、57年の二度、中央アジアのモンゴル国家チャガタイ=ハン国と戦った。1266年に即位したギャースッディーン=バルバンは貴族の力を押さえて権力を確立したが、その反動で党争と反乱が続くようになった。1285年、87年にはイランのモンゴル国家イル=ハン国軍の侵攻を受けて混乱、1290年、トルコ系のジェラルッディーン=ハルジーによって倒され、ハルジー朝に交代した。
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