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デリー

1206年からデリー=スルタン朝の都となり、さらにムガル帝国の最初の都となった。アクバル帝の時、アグラに遷都したが、1648年、シャージャハーンがデリーに新たに都城を建設した。隣接するニューデリーは1911年にイギリスが建設した。

デリー(オールド・デリー) GoogleMap

 デリーはインドの古くからの政治の中心都市。ヒンドゥスタン平原の西部、ガンジス川の支流の一つのジャムナー川の右岸にあって、ガンジス川流域とインダス川流域を結ぶ交通の要衝である。1648年、ムガル帝国のシャージャハーンがこの地に新都を建設してから大きく発展したが、それ以前からインド史の中心地の一つであった。

オールド=デリーとニュー=デリー

 現在のインドの首都デリーは、オールド=デリーとニュー=デリーに分けられる。オールド=デリーはムガル帝国の王宮であった「ラールキラー(赤い城)」と呼ばれる城壁に囲まれた地域で、歴史的地域となっている。城壁の外側はかつては広大な野原が広がっていただけだったが、1911年にイギリス植民地政府がカルカッタから移り、首都として開発が始まった新しい地域なのでニュー=デリーと言われる。現在では官公庁やビジネス街、大型ショッピングセンターなどが建設され、急速に膨張した。周辺の居住地区は、南部が官僚やビジネスマンなどの住む高級住宅地、北部は庶民的な住宅地となっており、仲には低所得者の密集地域もある。

デリーの建設

 デリーが最初に建設されたのは、736年、トーマラ朝という地方政権によってであったが、12世紀にラージプート諸侯のひとつのチャーハマーナ朝の都となった。
 チャーハマーナ朝は、アフガニスタンに興り北インドに侵攻してきたイスラーム教国ゴール朝のムハンマドとの二度にわたるタラーインの戦いで敗れ、1192年に滅亡した。ゴールのムハンマドは、北インドを統治するため、部将のアイバクをデリーに駐屯させた。これ以降、インドのイスラーム化が本格化する。

デリー=スルタン朝

 アイバクはゴール朝のムハンマドの奴隷であったが軍人として頭角を現し、ムハンマドに信任され、デリーでその代理として統治にあたっていたが、ムハンマドが暗殺された後、1206年にデリーで独立して奴隷王朝を建てた。これ以降、デリーにはいくつかのイスラーム王朝が交代し、それらを総称してデリー=スルタン朝という。奴隷王朝の次にハルジー朝トゥグルク朝のがそれぞれデリーを都として続いた。
 トゥグルク朝のスルタン、ムハンマドは一時、新都を南インドのダウラターバードに造営しようとしたが失敗した。1398年にはティムールがデリーを占領し、虐殺と略奪の被害に遭ったが、ティムールはすぐに引き上げ、その後のデリーはサイイド朝ロディー朝の都として続いた。

ムガル帝国

 1526年パーニーパットの戦いでロディー朝を破ってインドを支配したムガル帝国バーブルは、始め都をデリーに置いた。しかし第2代のフマーユーンはベンガル地方のアフガン勢力によってデリーを追われ、代わってスール朝が成立した。サファヴィー朝の支援を受けたフマーユーンが、1555年にデリーを奪還することに成功、再びオスマン帝国の都となった。その後、オスマン帝国の基礎を築いたアクバル帝は、1565年にアグラに新都を築いて移った。

ムガル帝国の新都建設

 さらに後のシャー=ジャハーンの時、デリー=スルタン朝の都の近くに新たに都として1648年にシャージャハーナバードを建造した。七つの城門と八つの砲台を持つ赤い砂岩の城壁が市の中心部に建設されたよことから「赤い城」の意味でレッド=フォートと言われている。これが現在のデリー(旧デリー)である。

ムガル帝国の解体

 ムガル帝国は17世紀後半のアウラングゼーブ帝の時に領土を拡張したが、一方で1679年ジズヤを復活させるなど、イスラーム国家としての姿勢を強めたため、ヒンドゥー教徒やシク教徒などの非イスラームの反発が強まった。1707年にアウラングゼーブが死ぬと帝位継承をめぐる争いが続くと、帝国各地でも反乱があいつぐようになり、それまで抑えられていたラージプート勢力もベンガル、デカンなどで独立権力を樹立した。ムガル帝国の中心部であるデリーに近いインダス中流域のワフト地方でも1742年にホラーサーン出身のサアーダト=ハーンが太守(スーバダール)に任命されて以来、独立した権力を振るうようになり、アワド王国といわれるようになった。
ナーディル=シャーによるデリー略奪 ムガル帝国の主要な州が次々と皇帝の支配から離れていくなかで、ムガル皇帝の権威を決定的に失墜させたのが、1739年3月20日のイランのアフシャール朝のナーディル=シャーが行ったデリー略奪であった。このとき、デリーでは3万人が殺され、「クジャクの玉座」も破壊されたという。ナーティル=シャーは5月16日には略奪品を引き下げて帰ったが、これによってデリーが破壊されただけでなく、ムガル帝国の栄光も終わりを告げたといえる。
マラーター同盟のデリー入城   その後も各地の有力者はそれぞれ自立の傾向を強め、デリーのムガル皇帝は名目的な権威を保つだけになっていった。デカン高原西部で最有力となったマラーター同盟はシヴァージーの子孫の王家に代わって宰相(ペーシュワー)を中心に、勢力を広げ、征服地には諸侯が配置され、宰相と諸侯の連合体としてマラーター同盟を華制した。同盟軍軍はベンガル、カルナータカ、ラージャスターンなどにも遠征軍を送り、1752年にはデリーに入城し、ムガル皇帝の保護者となった。これによってマラーター同盟は実質的にムガル帝国の後継国家となり、その権勢を極めることとなった。
 このマラータ同盟の北インド支配は、1761年にアフガニスタンからインドに侵入したドゥッラーニー朝のアフマド=シャーとのパーニーパットの戦い(1526年の戦いとは別)で大敗したことで、一時的に後退せざるをえなくなったが、1769年から再び北進を開始し、アフガン勢力などを破って、1771年にはデリー城を奪回、1784年に皇帝代理(ワキール)という称号を与えられ、ムガル帝国宮廷の実権を掌握した。

イギリスの侵攻

 同時に18世紀にはインドにおいても英仏の植民地戦争が展開され、1757年プラッシーの戦いイギリス東インド会社の優位が確立し、次いで1764年ブクサールの戦いで東インド会社軍がムガル皇帝・ベンガル太守などの連合軍を破り、ベンガルのディーワーニー(地税徴収権と行政権)を獲得し、イギリスはベンガル地方の実質的な植民地化に着手していた。

インド大反乱

 イギリス東インド会社による実質的な支配のもとでムガル皇帝は実権を失い、イギリスから支給される年金で生活する状態となった。そして最後にムガル皇帝は、1857年のインド大反乱(セポイの乱)で反乱軍に担ぎ出され、デリーに立てこもって一時はイギリスに対する新政権を宣言したが、結局はイギリス軍によって鎮圧され、帝国は滅亡した。

ニューデリーの建設

 現在のニューデリーは、このデリーの東南にイギリスがインド統治の首都として新しく建設し、1911年12月12日にベンガルのカルカッタから遷都した新都である。デリー=スルタン朝とムガル帝国の都であった地域は、オールドデリーとして「赤い城」などの遺跡を残しているだけである。ニューデリーは、現在のインドの首都。

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