ノルマンディー/ノルマンディー公国
ノルマン人がフランスの北西部に移住し定着した地域。911年、カペー朝より公国と認められた。ノルマン人はさらに1066年、イングランドを征服し、1130年には南イタリアにシチリア王国を建国した。
911年、ロロに率いられたノルマン人の一派は、フランス(西フランク)に侵攻、フランス王シャルル3世は、キリスト教への改宗などを条件に、彼らにセーヌ川下流域の定住を認めなければならなかった。その地はその後、ノルマンディーと言われ、ロロの子孫はノルマン貴族としてフランス王(後にカペー朝のフランス)の家臣となって「ノルマンディー公」と称した(ノルマンディーの領主は「伯(コント)」であったが、11世紀には一段上の「公(デューク)」を自称するようになり、1204年に正式に公に叙せられた)。
Episode ヴァイキングの気質
ロロが公国を建設した半島とその近隣の島々(現在はイギリス領チャネル諸島)はノルマンディー地方といわれるようになった。(引用)この地方に移住したデーン人その他は、北ヨーロッパ人の剛毅な精神を、フランスの文化の中に吹き込み、ノルマン人という特殊な気質を産んだ。かれらは、フランス化した北ヨーロッパ人である。フランス語を学び、キリスト教に改宗し、フランス法を採用し、石造建築を始めた。もう一つ、注目すべきことは、騎馬戦の技術を習得したことである。これは1066年の「ノルマン人のイングランド征服」が行われた際、勝利の大きい原因となった。要するに、ノルマン人は、ヴァイキングとして、決して骨抜きになったわけではない。逆に、フランスの文化から、その最も優れた要素を取り入れたのである。<荒正人『ヴァイキング』1968 中公新書 p.75>
ノルマン=コンクェスト
1066年にはノルマンディ公ウィリアム(ギヨーム)がイングランドを征服(ノルマン=コンクェスト)し、ノルマンディーとイングランドを併せたノルマン朝イギリスが成立した。南イタリア進出
また、南イタリアからシチリア島一帯はイスラーム教勢力の侵攻が続き、苦慮したローマ教皇は、ノルマンディーのノルマン人の武力を利用しようとした。ノルマンディーのノルマン人は土地不足から海外発展の機会を狙っていたので、教皇の意向に沿う形でまず傭兵として南イタリアに赴き、そこで土地を与えられ領主として力を付けた者のなかには地中海進出を図るものも現れた。まず、ノルマンディーのオートヴィル出身のロベルト=ギスカルド(ロベルト=イル=グィスカルド)とルッジェーロの兄弟らはノルマン人の南イタリア進出をはかり、ルッジェーロの子のルッジェーロ2世が1130年には両シチリア王国(ノルマン朝)を建設した。その後のノルマンディー
征服王ウィリアムの死後、長子ロベールがノルマンディー公となったが、イギリス王ウィリアム2世と対立し、ヘンリ1世の時の1106年に再びイギリスに併合された。その後もフランス内のイギリス王(ノルマンディー公としてはフランス王の臣下にあたる)領として続いたが、フランス国土の統一をめざすカペー朝のフィリップ2世はこの地に侵入してイギリス王リチャード1世と戦った。さらにリチャードの死後のイギリス王ジョンの婚姻問題に干渉し、それと争って、この地を奪ってフランス領に編入した。1259年のルイ9世の時に正式にフランス領となり、その後百年戦争で一時イギリスが奪還するが、間もなくフランスが奪回し、その後は現在に至るまでフランス領となっている。なお、この地は第2次世界大戦でドイツ軍に占領されたフランスを奪回すべく、1944年6月、連合軍が刊行したノルマンディー上陸作戦があったところとしても世界史に登場する。