聖職売買/シモニア
中世ヨーロッパでキリスト教の聖職者の地位が金銭で売買されたことで、聖職者妻帯と並んで教会の腐敗の一つとされた。10世紀から11世紀初めに顕著となり、聖職者の妻帯と共に批判が高まって、11世紀後半の教皇グレゴリウス7世は俗人による聖職者叙任とともに厳しく禁止する教会改革(グレゴリウス改革)を進めた。
中世のローマ=カトリック教会の聖職者はきびしい階層制組織(ヒエラルキア)のもとにあったが、ローマ教皇を頂点とする大司教や司教など高位聖職者になれば、所領をもち、豊かな財力を持つことが出来た。そのため、聖職者の地位を金銭で売買する、いわゆる「聖職売買」(シモニアといわれた)が次第に行われるようになった。聖職者と言っても、その任命権ははじめ国王や諸侯の「俗人」が握っており、また俗人が司教や修道院長などの高位の聖職者を兼ねることも多かったので、任命される際に金銭を納めることが一般に行われるようになった。また、聖職者の中には、俗人と同じように妻を持ち、信仰心が深くなくとも高い地位を買うことがあった。これは本来のイエス時代のキリスト教からはまったく堕落した状態と言わねばならないが、11世紀ごろには聖職売買や聖職者の妻帯は誰も疑問に思わない普通の状態となってしまった。
聖職売買の実例
聖職者の妻帯=ニコライスム ニコライスム(またはニコライティズム)の語源は、アンティオキアの改宗者ニコラウスを首謀者とする異端から来ている。10,11世紀にはニコライスムという言葉は姦淫を意味しており、聖職者が性的享楽にふけって妾をもつとに対する批判として用いられていたが、中には聖職者独身制を守らず、堂々と婚姻するものも現れるようになった。その口実は合法的に結婚することで聖職者が放縦な生活を送らないようになる、つまり結婚は良薬だとして推奨されたことだった。しかし、聖職者が結婚して家族を持てばその財産は私有財産として子に引き継がれることになり、その保障は世俗の国王や領主に委ねられるようになったと考えられる。
この聖職売買(シモニア)と聖職者妻帯(ニコライスム)は、本来の教会や修道院の聖なる職務からは大きく逸脱した聖職者の腐敗であるという批判が強くなる。特に6世紀のベネディクトゥスの始めた修道院運動が、再び活発となった。
叙任権闘争への転化 とくにグレゴリウス7世の改革はきびしく、聖職者の反発もおこった。それらをキリスト教の危機ととらえたグレゴリウス7世は、聖職が売買される原因は、その叙任権を俗人である神聖ローマ皇帝以下の俗人がもっているところにあると考え、1075年に教皇勅書を発して、俗人の聖職叙任権を否定した。それに対してドイツ王(後に神聖ローマ皇帝となる)ハインリヒ4世は強く反発、逆に教皇グレゴリウス7世を否認した。ここから皇帝と教皇との叙任権闘争が本格化し、1076年、グレゴリウス7世は命令を拒否したドイツ王を破門とした。破門は王位の否定につながるので、ハインリヒ4世はやむなくカノッサ城に滞在していた教皇グレゴリウス7世の許しを乞うためこととなったのが、1077年1月のカノッサの屈辱であった。
聖職売買=シモニア
聖職の売買は、「シモニア」といわれた。それは、新約聖書の使徒言行録第8章9~24節に、シモンという魔術師が、聖霊を人びとに授ける能力をペテロから金で買おうとした話からきている。ペテロは「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手にいれられると思っているからだ。・・・この悪事を悔い改め、主に祈れ。」といっている。聖職売買の実例
(引用)シモニア的選出の話はいくつか残っていて、それから我々は実際どうであったかを知ることができる。最も単純でしかもひんぱんに行われたのは金銭を贈る場合であった。999年に、ヴォルムスで、司教座が空位になっていた。沢山の候補者が現われ、皇帝オットー3世を《様々な裏面工作と金の約束で》悩ませたが、最後にそれを手に入れたのは他の連中より大胆なことをやってのけたラゾとかいう人物であった。1066年には、大司教エルマンゴウの継承をめぐって多数の志望者が争ったナルボンヌでも、同じような競売が行われている。すなわち、コンク修道院長アダルジェールは、すでにその地位をシモニアによって得ていたが、この司教職を買うためにその修道院の財産を売りはらった。・・・だから、司教になるためには金持でありさえすれば充分であったのである。・・・<オーギュスタン・フリシュ/野口洋二訳『叙任権闘争』2020 講談社学術文庫 p.27-28>
聖職売買の理由と影響
10~11世紀頃、ヨーロッパ・キリスト教国の聖職者の中に聖職売買が横行した理由は、教会と修道院の財産として土地が付属しており、聖職者は封建領主として土地を支配することができたので、宗教的情熱では亡く豊かな生活のために聖職者の地位を得ようとするものが多かったからである。さらにその経済的利益、財産は血のつながった後継者に与えようとするものが現れ、聖職者に禁止されている妻帯を行い、子供をもうけて相続させるものも現れた(聖職者の妻帯は聖書に書かれていたわけではないが、純粋に神に仕えるものとしては妻帯は許されないものという不文律ができていた)。このように聖職売買は、世俗社会の封建制度のなかでは必然的に現れ、また聖職者の妻帯も必然的に横行することだった。聖職者の妻帯=ニコライスム ニコライスム(またはニコライティズム)の語源は、アンティオキアの改宗者ニコラウスを首謀者とする異端から来ている。10,11世紀にはニコライスムという言葉は姦淫を意味しており、聖職者が性的享楽にふけって妾をもつとに対する批判として用いられていたが、中には聖職者独身制を守らず、堂々と婚姻するものも現れるようになった。その口実は合法的に結婚することで聖職者が放縦な生活を送らないようになる、つまり結婚は良薬だとして推奨されたことだった。しかし、聖職者が結婚して家族を持てばその財産は私有財産として子に引き継がれることになり、その保障は世俗の国王や領主に委ねられるようになったと考えられる。
この聖職売買(シモニア)と聖職者妻帯(ニコライスム)は、本来の教会や修道院の聖なる職務からは大きく逸脱した聖職者の腐敗であるという批判が強くなる。特に6世紀のベネディクトゥスの始めた修道院運動が、再び活発となった。
グレゴリウス改革
10世紀に始まるクリュニー修道院を中心とした修道院運動では、このような聖職売買(シモニア)は、聖職者の妻帯(ニコライスム)とともに、厳しく非難されるようになった。クリュニュー修道院出身者がローマ教会で重要な働きをするようになると、その影響を強く受けた教皇レオ9世やグレゴリウス7世は、聖職売買と聖職者の妻帯を禁止し、すでに金銭でその地位を得ていたものや妻帯している者を罷免した。叙任権闘争への転化 とくにグレゴリウス7世の改革はきびしく、聖職者の反発もおこった。それらをキリスト教の危機ととらえたグレゴリウス7世は、聖職が売買される原因は、その叙任権を俗人である神聖ローマ皇帝以下の俗人がもっているところにあると考え、1075年に教皇勅書を発して、俗人の聖職叙任権を否定した。それに対してドイツ王(後に神聖ローマ皇帝となる)ハインリヒ4世は強く反発、逆に教皇グレゴリウス7世を否認した。ここから皇帝と教皇との叙任権闘争が本格化し、1076年、グレゴリウス7世は命令を拒否したドイツ王を破門とした。破門は王位の否定につながるので、ハインリヒ4世はやむなくカノッサ城に滞在していた教皇グレゴリウス7世の許しを乞うためこととなったのが、1077年1月のカノッサの屈辱であった。